JR東海道本線草津駅〜旧東海道〜草津宿〜大津宿〜京都・三条大橋(27.5km)


今日は、旧東海道の続き、草津から京都を歩いてきた。

朝6時50分に家を出て、自転車で名鉄の駅へ急ぎ、大曽根でJR中央線に
乗り換え、金山で米原行き特別快速に乗り、米原で西明石行き新快速に
乗り継ぎ、草津には10時少し前に着いた。
早速歩き出す。
駅から100メートルほどのところにアーケードの商店街があり、そこを
西へ向かって歩く。この商店街はそこそこ人の出があるが、車の通行も
あり、あまり良い感じがしない。

天井川である草津川のトンネルを通り抜けたところが、追分である。
ここで中山道(私が今歩いてきたアーケードの商店街の道)と南からきた
東海道が合流するところである。ここから先は東海道だから、ここが
中山道の終点であり、京都からくればスタート地点でもある。
追分のすぐ傍に、旧草津宿の本陣がある。


草津宿本陣



ほぼ当時のままで修復、保存、復元してあるということで、これだけ完全な
形で残っているのは、豊橋の二川宿とここだけだということである。
私は先を急ぐので、中へは入らなかった。(入場料が300円か要る)
二川宿もそうだが、外観はいかにも復元という感じがして、どうも私は
いい感じがもてなかった。


草津本陣通り商店街




後、街道を急ぐ。商店街は続くが、本陣通りというらしいが、すこし
中心からはずれると、商店街も寂れているし、この町は本陣を観光名所に
しているだけで、今ひとつ好きになれなかった。

商店街のスーパーでお茶(500ccペットボトル)を1本買う。
バナナのバラ売りがあれば2本ほど買いたいところだが、どれも
1房5〜6本がセットみたいである。
バナナは家から1本持ってきたが(偶々1本しかなかった)、草津で降りる前
電車の中で歩き出す準備をしていてバナナを見たら暑さでもうもう
ぐにゃぐにゃになりかけていたので、電車の中で食べてしまった。
途中で買いたいと思ったが、うまくいかないものである。

町のはずれには、ところどころ古い家も残っている。
しばらく歩くと国道一号線にぶつかり、それを渡る。

旧道との入り口が分かりにくかったので、歩いている人に聞いたが、分らない。
大体、旧東海道を聞いても分る人はまずいない。かなり年配の人か、ちょっと
変わった人ということになる。
それで懲りたので、これからは「この道は旧東海道ですか」という風に聞かずに
それから先にある、目印となりそうな地図で目標物を探してそれを聞くことに
した。
「何々寺へ行くのはこの道ですか」とか「この道を行くと何々池に出ますか」と
いう要領である。これなら、いい。

私の持って行ったガイドブックは2万5千分の1の国土地理院の地図がそのまま
出ているので、道に迷うことはない。それでも不安になったときは、とにかく
口で聞くことにしている。
おかしいなと思ったときは、複数の人に聞く。

歩いているうちに大津市に入り、やがて瀬田の唐橋に着いた。


瀬田の唐橋




瀬田川というのか、あるいは琵琶湖の水なのか、さすがこの川は水が満々と
溢れている。
橋を渡ったあたりにすこし古い建物の店があった。

橋を越えて、しばらく行って右へカーブして、北へまっすぐ商店街を歩く。
旧東海道は、瀬田川を渡る橋がないため、ずいぶん一度南へ下って唐橋を
渡り、そこからまたかなり北へ向かって歩くことになる。

東海道本線、京阪電車の高架下をくぐり、NECの工場の塀に沿って、工場を
半周するような感じで旧東海道を進む。
「関西NEC」という案内板がかかっていたが、ここが今をときめくNECの
発祥の地である(のはずである)。
そのころは「新日本電気」と言ったと思うが、この工場には私も思い出がある。
今から三十数年前、以前勤めていた会社が、新日本電気と取引があり、集金に
大阪からここまできとことがあった。1万円か2万円くらいの小切手を
もらい帰るとき、JRか京阪の石山へ戻った時、次の電車までかなり時間が
あったので、時間つぶしのため近くに喫茶店へ入ったことがあった。
そしたら丁度テレビがオリンピックの放送をやっていた。
東京オリンピック最終日のマラソンである。
もうレースは最終局面で、エチオピアのアベベが独走態勢となり、淡々と
しかも誰をも寄せ付けないような聖者のような厳粛な顔つきで走っていた。
裸足のアベベと呼ばれたのはその前のローマ大会であり、この時は
ゴムのズック靴を履いていたと思う。

そんなことを思い出しているうちに、道は何回か曲がりながら、静かな町に
なる。
ある雑貨屋の店先にカートに乗せて、麦わら帽が99円で売っていたので、
思わず買ってしまった。(税込みで103円)
この暑さを凌ぐのにいいと思ったが、私は身体の割に頭だけ大きかったのを
すっかり忘れていた。
それでも、窮屈だが、かぶれないこともない。この後麦わら帽の後ろに
小さいタオルを差し込んで後頭部やうなじに直接日光が当たらないように
して歩いた。

琵琶湖が見えるあたりまで近づいたところで、こんどは道は左へ西へカーブし
大津の中心街へ向かう。

さて、歩いて(特に暑いときに)思うことは何か。
それは早くビールを飲みたいなということである。そのことばかりを頭に
ちらつかせながら歩いていると言っても過言ではないくらいである。
途中に見かける蕎麦屋やすし屋やレストランなどの前にあるビールの看板が
気になって仕方がない。
しかし、私はアルコールにあまり強くないということもあるが、ウオーキング
途中でのアルコールは禁物である。ビールを飲んだ時は気持ちがいいが、
その後が歩けなくなるだろうと思っている。

私が旧東海道を歩くについて、「町並み館」にリンクされている先輩諸氏の
レポートをずいぶん参考にさせてもらっているが、そのうちでも詳細な
レポートを書いておられるW氏のHPは面白く有益だった。
そのうちのビールとのからみで、やはり大津に近づいた場面での同氏のHPを
下記のとおり、引用させてもらった。


「 とてもホテルのレストランに入る服装ではなかったし,そんな気分でも
なかったので,道路沿いにあったファミリーレストランまで戻って遅い昼食を
取った.
チキンの唐揚げとポテトチップスの組み合わせを頼み,少し迷って中生ビールを
頼んだ.一杯くらいなら元気付けになって良いだろうと思った.
 いつも反省するのだが,この中生ビールが,最初にテーブルにやってくる.
 そして丁度半分以上中身が無くなったころに,チキンの唐揚げやポテトチップ
スがやって来る.
「ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」と例のマニュアル言葉が出る.
「ハイ」と応えるものの,「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスが去った後,
ポテトチップスの塩味で,喉は適当に乾くし,ビールはたちまち底を尽き,
料理だけが残った.
 同じことなら最初から大を頼んでおけばよかったと,この時になって思う.
 料理を食べて行く内に,さらにもう一杯欲しくなったが,こうしたレストラン
では,酒飲みの,いじましいおじさんの気持ちに通じた店員は少ないから,なか
なか席には回って来ない.
 普段なら席を立って,ウェイトレスのいる所まで歩くのだが,この日は窓の
外に輝く大津プリンスホテルを眺めていたせいで,ゆったりかまえねばならない
と思った. 気持ちだけは一流ホテルの賓客になっていた.
 今日は中生ビール一杯にして,あとは京都まで歩き抜こうと,また思い直した.
それから時計を見た.
少々時間が足りない気がするなーと,別の私が語り掛けて来た.
 それにしても夕方に間に合うだろうか,やっぱり喉が乾くしなー.
 てなことを呟きながらほぼ料理を食べ尽くしたころ,付近をウェイトレスが
通過した.
 決心がぐらつき,自然の内に手が上がり,無意識の内にグラスを宙に上げて
いた.
 しかし,ここは居酒屋ではない.このサインがお代わり発注だと分かる
アルバイトさんではなった.
 彼女は,ハイといった風情で,もうお済みですかとばかりグラスを持ち去った.
 こうなると,反省は吹っ飛んでしまった.
もうどうしてもビールが欲しくなった.
 もう一度手を上げて,それでも来ないから席を立ってウェイトレスを呼びに
行った.
 ピザを注文し,また中生ビールを注文した.
 悪循環の兆しを感じたが,もう遅かった.
 再び中生ビールが先にテーブルにやって来て,中身が半分から1/3に減った
頃,ようやくピザが来た.
 その場ですかさず,もう一杯と,今度は意思も強固に発注していた.
 歩いた後のビールは血管を駆けめぐり,心地よい酔いが全身を包んでいた.
 もう京どころか,大津さえ怪しくなってしまった。 」


以上、すこし長くなったが、W氏のHPの引用である。
酒を飲む者の心境などが実によく分るではないか。
結局、この日は大津でウオーキングを止め、また改めて大津〜京都を歩いて
おられる。

さて、私の方であるが、大津宿に近づいたところに義仲寺というお寺が東海道
沿いにあったので、表の写真を撮った。


 義仲寺





朝日将軍木曽義仲(1154〜1184)の墓があるお寺である。
木曽義仲は一度は京を支配し、征夷大将軍になるが、権力闘争に敗れ、この地
で、従兄弟に当たる源義経の軍勢に討ち取られた。
彼は都の、特に宮廷、公家からは忌み嫌われたが、一般大衆には慕われ、彼の
死を悼んでこの地にまつられたのではないかと思う。
松尾芭蕉もなんどもこの地へ足を運び、その遺言が「自分の亡骸は義仲寺へ
葬れ」だったそうで、「旅にやんで、夢は枯れ野を かけめぐる」という句を
残して大坂で死んだ芭蕉の亡骸を門人たちは船で淀川を使ってこの地まで
運んだそうである。
このお寺には、沢山の句碑が立っているそうで、
芭蕉自身の「行春を おうみの人と おしみけり」という句碑があある。、
門人の「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」という句碑のとおり、
芭蕉の墓は義仲の墓の横にあるということだそうだ。

有名な割に、意外と小さな寺である。
中へ入れば、墓の写真も撮れたろうが、中へは入らず、先を急ぐ。

大津の中心街に入り、大津駅を通り越した当たりに
「露国皇太子遭難の地」があったので、写真を撮る



「此付近露国皇太子遭難乃地」



この「大津事件」と呼ばれる事件は明治24年(1891年)に来日中のロシアの
皇太子(後のロシア最後の皇帝となるニコライ二世)が、この地で警察官津田
何某に斬りつけられ額に傷を負ったというものである。
幸い命に別状なく、最悪の事態は避けられたということである。

私たちが中学校だったか、高校だったかで勉強したのは、この犯人に対する
裁判を担当した裁判長のことである。
当然死刑にすべしという政府側の要求に対して、日本の皇族に対する加害行為は
死刑であるが、外国の皇族にたいする危害行為は法律上死刑になっていない
からということで、この裁判長は死刑にせず、無期懲役かにしたことにより、
日本の三権分立は守られたとかで、この裁判長を褒め称える記述が教科書に
あったように思う。
今思えば、どうでもいい、馬鹿馬鹿しいことを仰々しく勉強させられたものだ。

この「大津事件」には後日談があるそうで、先ほどのW氏のHPの記述に
よれば、この時に怪我による出血で、ハンカチと座布団に血痕が残り、これら
が保存されていたそうで、これが思いもかけない出番が登場する。
ロシア皇帝一家はロシア革命の後、一家全員が処刑されてしまうが、その内の
末娘のアナスタシアがその処刑を逃れ、後日私がアナスタシアであると名乗り
出る女性が現れて、その真贋を見極めるため、DNA鑑定が行われ、その資料と
して、先ほどの血痕が使われたという話である。
勿論、その女性は偽者だったということである。

やがて、大津市の中心街を過ぎ、道は左へ90度カーブしてまた南へ向かう。
要するに、草津から京都に向かう東海道は、大雑把にいえば琵琶湖と比叡山と
いう二つの大きな障害物のため、大きく迂回せざるを得ないのである。
琵琶湖の橋を渡るため、大きく南へ下り、こんどは北進し、大津でまた山間の
道を行くため、南へ行くことになる。

ガイドブックによれば、この辺に本陣跡があるということだが、確認できずに
国道一号線へ向かって、緩やかな上り坂を上る。
途中、コンビニでお茶と饅頭を買う。よもぎ饅頭がコンビニのレジのすぐ横に
置いてあったので、結局食べないような気がしつつ、つい買ってしまった。

逢坂山トンネルがあった。JR東海道本線と新幹線のトンネルが並んでいる。
東海道線の方はレンガ造りのようで、ずいぶん古い感じがする。
一見、廃線跡のトンネルという感じだが、電車が通り過ぎて行ったから、まだ
現役である。

しばらく歩いたところに「蝉丸神社下社」というのが神社があったので
そこで休憩した。京阪電車の踏切を渡り、神社に入る。
写真を撮っている男性がいた。
石段に座り、お茶を飲む。ついでにお茶を頭からかぶった。
先ほど買った饅頭をすこし食べてみた。甘いだけであまり美味いものでもない。
4分の1くらい食べて、止めた。そのままとりあえずビニールの袋に入れておく。

また、歩き出すといよいよ、久しぶりに国道一号線に合流した。
この辺りは、京阪電車、国道一号線、名神高速道路が狭い山間にひしめき合って
走っているところである。



逢坂山関跡






この辺の国道一号線は、人が歩ける、車道と区切られた歩道は片側(下り車線側
)にしかないので、信号で反対側へ渡る。
一号線の左側を歩いていたが、また旧道に分岐するので、歩行者用信号で
反対側に移るが、こちらは歩道が区切られていないので、ひやひやしながら
歩いた。
やがて、旧道の入り口に差し掛かり、旧道を入ったところに「かねよ」という
有名らしいうなぎ屋があった。日本一のうなぎとか書いてある。
ここは、本式の料亭とレストランがあるようで、
前述のW氏のHPによれば、この日本一のうなぎを食べるため、料亭の方へ
入って行ったら、「お食事でしたら、レストランの方へ行ってもらうと
サービス料も要りませんから」と言われて、有無を言わさずそちらへ
追いやられたそうだが、うな丼を注文したらすぐうな丼が出てきたそうで
ある。

注文したら、すぐ出てくるものが、なにが日本一だ、馬鹿にするなと
私は思いつつ、勿論こんなところへ寄る気もないから、通り過ぎた。

しばらく行くと、蝉丸神社(の本社?)があった。階段がかなり上まで
あるようで、社は山の上か中腹にあるのかもしれない。
蝉丸というのは、ご存知の百人一首に出てくる人物で、上の句は忘れたが
「知るも知らぬも 逢坂の関」という歌を詠んだ人である。
出自は不明だが、ガイドブックによれば、時の天皇の何番目かの皇子だった
とか。この先にも分社があるので、三つも神社があるということはそれなりの
人物なのだろう。

道はまた、陸橋を渡り、一号線に戻り、道に左側(下り車線側)の歩道を
歩く。緩やか下りになっている。逢坂山を越えたわけであるが、昔の道は
どうだったかは知らないが、大した坂ではなかった。


逢坂山を下ってきたところ
後を振り返って写真を撮る

数字は国道一号線の東京始点からの距離である。
鈴鹿峠を下りて土山へ向かう途中で写真を撮った
のが436kmだったから、そこから50kmくらいきた
ということか。もっと歩いた気がするが
たった50kmか


どんどん、国道一号線を進む。
こういう大きい道を歩いているとき、注意をしなければならないのは
高速道路のインターチェンジがあったり、高架の道と交差するときなど
突然歩道がなくなったり、大回りさせられることである。
要するに車の便宜優先なので、歩くものは犠牲になる。

歩道橋があったので、ここで渡っておいた方が良いのではないかと
思案していると、向こうから自転車でやってきた人がいるので、
旧東海道へはどう行くのか、この歩道橋を渡るのがいいのか聞いた。
その人はしきりに考えていたが、要はこの歩道橋を渡りまっすぐ行けば
いいという話だった。
私はそのとおり橋を渡り反対側の歩道を歩き出したが、どうみても歩道は
そのすこし先で無くなっているようである。
これは違うと思って引き返した。
そのまま、広い一号線を歩いていると、地下を渡る横断歩道があった。
これを渡るのが正解と思って反対側へ渡る。
やがてしばらく行くと、旧道に分岐する。そこからは一本道である。
どんどん歩くのみである。

酒屋へ入ってお茶を買った。すこし飲んでまた頭からかぶった。
賑やかな駅前へ出たなと思ったら、京阪電車の山科駅である。
後はJRの駅で言えば一駅というところかと元気が出てきた。
道は広い道にぶつかった。また国道一号線に合流した。
旧東海道は突き当たった所で右へ北へカーブする。しばらく国道一号線を
行く。
ここからが問題で、旧道はすぐまた左へ入るのが、その入り口が分りにくい。
予備知識がないと絶対に分らないと、W氏他の先輩のHPに出ていたので
気をつけて歩いた。
念のために、歩いてきた人に聞いてみた。旧東海道を三条大橋まで行くのは
どう行くのかと聞いてみると、その若者はこの道、一号線をまっすぐ行けば
いいという。そんなはずはないがと思いつつ、その次にやってきた年配の男性に
聞く。「この道、まっすぐや」と先ほどの若者と同じことをいう。
慎重に道を見ながら歩く。
先輩のホームページに出ていた、それらしい道がある。
ガソリンスタンドの隣の散髪屋の横の細い道が旧東海道だということである。
ガソリンスタンドは車のディーラーの展示場に変わっていたが、いかにも
スタンドだったような建物だし、床屋もある。その横の道は車がやっと一台
通れるかというほど狭い道である。
確信を持ってその道を進むが、ちょっと感じがおかしい。
広い道から旧道へ入ったときは、殆どの場合古い家があったり、旧街道の雰囲気
があるものだが、この道はまるっきりない。
むしろ新興住宅街である。おかしいなと思いつつ、向こうからきた女性二人に
聞いたが、分らない。
しまったかな、さっきの一号線を行っとけばよかったかと後悔し出したころ
年配の女性に出会ったので、もう一度聞いた。
あっさり「そうですよ」という答えである。「この道は旧東海道ですけど、
この先ちょっときつい坂がありますよ」とのこと。



新興住宅街の中の旧東海道

これが旧東海道とはとても思えない。

見ると、確かに先の方は上り坂になっている。



なあーに、この機に及んで少々の坂なんか苦にならんわいと思ったが
どっこい、ずーと平地を歩いてきたせいか、この坂がきつい。
京へ入る最後の試練と思った。昔の旅人はどんな思いでこの坂を上ったのか。

坂を上り詰めたところは、古い部落なのか、結構古い家も見かけた。

旧道は、また一号線に合流する。そのとき、道を下った訳ではないから、
一号線を来たとしても、ゆっくりかもしれないが、結局同じだけの坂を上って
くるんだ。

やがて、道はゆっくりした下りとなり、蹴上というところへ着いた。
ここで道は左へ、西へ90度カーブして、三条大橋まで一直線である。
ここから約3km弱だ。
時間は3時半すぎで、いよいよ暑い。
ばてばてというのか、惰性で歩いているようなものだが、この3kmが
長い。歩いても歩いても一向に辿り着かない感じである。
たまらず、コンビニに入って、ポカリスエットを買う。
これを飲みながら歩くが、しまった、水にすれば良かったと後悔する。
水なら頭からかぶることはできるが、ポカリスエットではかぶれない。
三条何々、三条何々と地名は変わって行くが、大橋はまだかといううちに
やっとのことで、三条大橋到着、4時10分、27.5km 6時間10分。

三条大橋をバックに写真を撮ってもらおうと思うが、通行客が多すぎて
かえって頼みにくい。
ちょうど参議院選挙で「宮崎学」とかいう人物の選挙ビラを配っていた
若い女性にビラをもらう代わりに写真を撮ってと依頼した。



これが東京・日本橋から歩いてきたのなら
、堂々のVサインだが、
今回はそうはいかないが、それでも西の
ゴールまで来たので、無理をしてでも
写真の欲しいところである。




この後、地下鉄で京都駅に出た。電車を待つ間、ホームでつまみをポリポリ
食べらながら念願の缶ビールをゆっくり飲む。
4時57分発の長浜行きで米原へ出、豊橋行き快速に乗り継ぎ、帰宅したのは
午後8時20分だった。

暑い暑いといいながら、歩いているとそんなに暑いと感じない。
しかし水分の補給を心がけたこともあり、よくお茶は飲んだ。
缶ビール(350cc)1本、お茶(500ccポットボトル)5本、アクエリアス(350cc)1本
ポカリスエット(350cc)1本

以上