平成13年6月17日
富田林市寺内町
今日は朝遅めに実家で目を覚まし、食事した後、これも何年ぶりか、何十年ぶりかで
周辺の町をぶらぶら歩く。
すっかり変わっている様子の中に、昔のままのものもある。
中学生時代の同窓生で旧東海道を歩いているというのがいたので、どこまで行ったか
話を聞きたいと思って彼の家を訪ねた。
金物屋をやっているので、店は閉まっているだろうが、自宅の方にいないかと思って
約束もせずに行ってみた。呼び鈴を押しても反応なし。
留守のようだったので諦める。
この近くにやはり中学時代の友人がいたなと思って、昔の記憶をたよりに家を探す。
家の様子はすっかり変わっていたが、彼は在宅したので、これも何十年ぶりかで
会って、しばし雑談。
この後、京阪電車の関目駅に出て、京阪、JRを乗り継ぎ、近鉄南大阪線で
富田林に行く。
富田林に12時45分に着いた。
今日は「父の日」なので、夕方までには自宅に帰りたい。そのため3時に近鉄特急の
切符を買ってある。2時にはこの富田林駅には戻ってくる必要があり、寺内町を見るのは
1時間余りしかない。
駅員に「じないまち散策絵図」というものをもらって歩き出す。
以下のホームページで見た多分、富田林市のHPの寺内町の説明文を引用させてもらった。
「富田林寺内町は、永禄年間(1558~69)に京都興正寺門跡十四世証秀上人によって
創建された興正寺別院を中心とする宗教自治都市です。
近鉄長野線富田林駅から約300mほど南にあり、南端は石川の河岸段丘による土塁、
北端は堀割り(現在は暗渠)によって区画され、東西・南北とも約350mの広がりもっています。
現在も創建当時の六筋七町の町割りが残され、歴史的な範囲を容易に読みとることができます。
富田林寺内町は、17世紀以後、幕藩体制の中で宗教色は次第に薄れ、周辺地域の農作物の
集散と商業活動による在郷町として発達しました。
寛文8年(1688)の記録では、樽や布など酒造や木綿に関する商いが盛んで、
51職種、149の店舗が軒を並べていました。
重要文化財旧杉山家住宅、仲村家住宅など、往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が現存し、
歴史的な景観を形成しています。
富田林市では、この優れた文化遺産を後世に伝え、新しい時代の特色あるまちづくりに
生かすため、旧寺内町のうち約11haを文化財保護法に基づく伝統的建造物群保存地区に
指定しました。
平成9年10月には、富田林寺内町の価値とまちづくりの実績が評価され、国の文化遺産として
重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
」
重要文化財
旧杉山家住宅(きゅうすぎやまけじゅうたく)
「杉山家は寺内町創立以来の旧家で、代々「杉山長左衛門」を名乗り、江戸時代を
通じ富田林八人衆の一人として町の経営に携わってきました。
旧来の家業は明らかではありませんが、貞享2(1685)年に酒造株を取得した後は、
造り酒屋として成功し、当初30石であった酒造石高は、元禄10(1697)年に104石、
天明5(1785)年に1103石と著しい発展を遂げています。
江戸時代の屋敷図によると、杉山家の屋敷地は町割の一画を占める広大なもので、
その中に主屋を始め酒蔵、釜屋、土蔵など十数棟が軒を接して建てられており、その繁栄を
うかがうことができます。
主屋の建築年代は、土間部分が17世紀中期で最も古く、その後に座敷や二階部分を増築し、
延享4(1747)年ごろほぼ現状の形に整ったものと考えられています。
富田林寺内町の古い町家は整型四間取りの平面構成をとり、煙返しの梁など農家の
建築技法を用いています。旧杉山家住宅はこれら町家の中で最も古い遺構であり、
規模も大きく質のよい商家の住宅として、昭和58年12月26日重要文化財に指定されました。」
杉山家住宅は公開されており豪壮な屋敷を見ることができる。私は時間がないので
残念ながら立ち寄らなかった。また行くことあると思う。
尚、この杉山家の前に寺内町センターというのがある。簡単な展示館である。
石上露子の展示をしていた。写真で見ると大変綺麗な女性である。
下記説明をまた引用する。
「石上 露子(いそのかみ つゆこ)(1882-1959)
本名杉山孝。明治15年、杉山家の長女として生まれました。
幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、短歌では22歳のとき『明星』でデビューしました。
古典の教養をもとに、華麗さの中に深い憂いを漂わせた作風で評価され、明治36年に
『新詩社』の社友となり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに
「新詩社の五才嬢」と称されました。
思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”は絶唱と評され、
石上露子の名を不朽のものにしました。 」
家業を継ぐため結婚したが夫から歌を禁じられ、中央歌壇から忽然と姿を消したため
「伝説の歌人」といわれたそうである。
夫が株取引で大損した後、彼女の才覚で家を建て直したとも。
山崎豊子の小説のモデルとなったとも聞いた。
仲村家住宅(なかむらけじゅうたく)
-大阪府指定文化財(非公開)
上記仲村家について、以下再び富田林市のホームページから引用する。
「当家は屋号を「佐渡屋」といい、酒造業を営んでいました。代々徳兵衛を名乗り、
寺内町八人衆をつとめたと伝えられています。
正徳5(1715)年に酒造株を取得してからは、造り酒屋として著しい発展を遂げ、
天明5(1785)年の酒造米高は、河内国で最高の2135石に達しました。
寛政4(1792)年には江戸市場を対象とした酒造業の理事長にあたる
「河内一国江戸積大行司」をつとめました。
主屋の建築年代は普請入用帳から天明2~3(1782~3)年であることがわかっており、
主屋西側の店部分、南に続く3室の別座敷も同時期のものです。
この座敷には文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰もその内のひとりといわれてます
」
以下、町を歩き、適当に撮った写真である。
手前の石の標識は「あてまげの道」と書いてある。
「あてまげ」というのは東西南北きれいに町割りは
されているが、道の交差点は十字に交差させずに
道の3分の一くらいずらして交差させていることをいう。
城下町に多い、鍵形とか枡形などと同様、敵からの
防御のため、わざと道をまげてあることらしい。
今日もここでも沢山のカメラマンに会いました。十人以上の人を見かけました。
この寺内町では何十人かの人が写真を撮っていたと思います。
どの方も「車が邪魔、電柱がどうしても入るな、電線が気になるな」というようなことを
云ってました。
私は電柱、電線はあまり気にならないが、車がどかんと置いてあるのにはやはり
どうにかならないかと思う。
外から来たものの勝手といえば勝手でしょう。
時計を見て、急いで富田林駅に戻る。電車がちょうど出たところで10分余り待つことになった。
阿倍野の近鉄百貨店でばってら鮨を買いたいと思っていたが、これでは時間がない。
富田林駅の売店でビールのつまみだけを買う。
後、JR鶴橋駅のホームでJRがやっているコンビニで缶ビールを買う。
コンビニでビールを買うと、ずいぶん得した気になるものである。
6時半ごろ帰宅した。