平成13年4月1日
三重県、JR関西線桑名駅〜桑名市内〜旧東海道〜桑名宿〜四日市宿〜石薬師宿〜
JR加佐登駅(31.2km)

いよいよ今日から4月だ。

今日も旧東海道を歩くことにした。
先月18日の続きで、静岡県新居町から東へ舞阪、浜松、磐田と歩く手もあったが、
浜松以東が単調な道でやや歩くのに面白みが欠けるきらいがあるので、先に
一転して、西へ向かうことにした。

江戸時代は名古屋から西へは旧東海道は船で桑名へ渡った。
7里(約28km)あったので「七里の渡し」という。
今は船で渡るわけにも行かないから、桑名まで電車で行ってそこから歩くことにした。

朝7時前に家を出て、名鉄瀬戸線、JR中央線を乗り継ぎ、JR関西線の「快速みえ」に
乗る。2両編成で2号車と1号車の半分が自由席である。自由席はそこそこ混んでいる。
立っている人もいる。
桑名までノンストップの快速は早い。18分で着く。
8時15分歩き出す。

駅から少し北へ行き、そこから広い通りを東へ向かう。
歩道も広く取った洒落た感じの道である。電線が地中に埋めてあるので電柱がない。

国道1号線を渡ったが、この辺りの国道1号線もなかなか綺麗な道である。

桑名の「七里の渡し跡」が旧東海道のスタート地点であるが、駅から1km弱東のところにある。

今日はそこへ行く前に「六華苑」に寄ることにした。
六華苑というのは、「七里の渡し」跡より少し北にある庭園である。
前日、参考のためにとインターネットで桑名市のホームページを見たら、
市の観光スポットとして出ていたので、寄り道することにしたものである。

六華苑というのは、重要文化財「旧諸戸清六邸」である。
諸戸家というのは、日本有数の林業家、山林王として有名で、この地の大資産家という
ことである。
この六華苑へ行く手前の広い土地に、「諸戸林業」その他「諸戸何々」という会社が
いくつか見かけた。

六華苑は敷地18500平米、2代目当主諸戸清六の邸としてイギリス人の
設計により大正2年建造された木造洋館を中心に和風座敷、前庭などの庭園に
なっている。

この大正洋館というのに惹かれて、わざわざ見に行く気になったものである。

入場できるのはもっと遅い時間と分かっていたが、外からでも写真が撮れないかと
期待していった。
幸い入り口が開いていたので、苑に入って写真を撮らせてもらった。



入り口通路から写真を撮る。



「六華苑」の全景

いかにも大正ロマンという感じの
すばらしい建物である。

庭も広くて、見事なものである。

建物は桑名市に寄贈され、市が管理している
ようである。
平成9年重要文化財に指定とある。

六華苑の写真をとり、いよいよ旧東海道に向かう。

まずスタートは「七里の渡し」跡だが、その少し手前に「船津屋」(本陣跡)と「山月」(脇本陣跡)と
いう大きい料理旅館が並んでいる。
「七里の渡し」跡の石の標識が立っているが、そこからは海は見えない。
伊勢湾台風の後、海と道の間に高い防波壁が作られたからである。
横の階段を上がった下が、小公園になっており、ここが昔の渡し跡らしい。
鳥居も立っているが、「伊勢の一の鳥居」だそうである。

旧東海道はそこから南へ一本道である。
その辺りは旅館、割烹、レストラン、小料理屋が並んでいる。
ここが昔の東海道といえば、なんとなくそんな感じもする。
上記の店はおそらく昔からここで商売をしておられたのだと思うが、桑名市の中心街から
離れているので、こんなところでお客がくるのか、余計な心配をするくらいである。
「船津屋」「山月」も老舗の店で格式もあるのだろうが、こんなことで今どき商売が
なっていくのだろうかと思った。


更に行くと、桑名城址の堀があり、そこがボートの置き場になっており、沢山の
ボートが係留されていた。
堀の一部が埋め立てられ、「歴史を語る公園」になっている。江戸から京都までの
東海道五十三次を模した公園である。
ガイドブックの地図を辿りながら、いくつか道を曲がりながら枡形を行く。

桑名市内はお寺、神社の多いところである。



そんな中の一軒で桜が綺麗に咲きかけて
いたので写真を撮る。


こんどは南行きから右折して西へ向かう。

こういう感じの古そうな家が市内の
あちこちに見受ける。


国道一号線を渡るとき。角に和菓子屋さんがあったが、これも随分古い商家らしく
家や屋根に歴史を感じさせるものがあった。

一号線を越え、200米くらい行って突き当たりを左折して南へ向かう。
ここからずーと一本道である。
1kmあまり歩いて、町屋川を渡る。ここから朝日町である。

ここで一人の男性と会う。
私と同じ東海道五十三次ガイドを持っている。年令は私よりかなり若い。
立ち止まってしばし雑談。
京都から東京まで通しで歩くそうで、1日30km歩いて、17日で東京へ
着きたいということである。自宅は横浜だそうで、今日で四日目だそうで
一日目は草津泊、二日目は土山泊、そして夕べは四日市泊まりだった。
(旅館は予約せず、ぶっつけだそうで別にそれでも差し支えなかったとのこと)

年を聞くと、52才で、勿論まだ現役である。この東海道ウオーキングのため
休みを取ったということであった。
時々、道を見失うがそんなときは国道一号線に出て、一号線を歩いていると
また、旧東海道に出会うので、そこで旧道に戻るというお話をしておられた。

毎日30km歩けるというのもうらやましいし、約3週間の休みを取れるというのも
信じられないような話でもある。

お互いがんばりましょうということで分かれた。
いい話を聞いたので、私も元気が出てきた気がした。



朝日町の古い家を写す。






朝明川にかかる朝明橋を渡り、四日市市にはいる。

街道筋の家はそれぞれ庭を大切にするのか、花壇を作ったり、
灯篭をおいたり、なかなか凝った家が多いと思った。

茂福町というところでは、あちこち古い家を見かけた。

富田町に入り、「史跡富田の一里塚跡」という石碑があった。
説明板によれば、四日市市内に3ッ個所(4個所だったか)の
一里塚があったそうで、富田はそのひとつだそうである。
四日市市の史跡の指定をうけているとか。
一里塚そのものは欠片もない。
石碑が一本あるだけである。
東海道には、場所によっては一里塚がほとんど当時のものが
そのまま残っているところもある。それなら立派な史跡だが、
昔ここにあったというだけで石碑一本あるだけのものが史跡といえるのか。
こんなものが史跡なら日本国中史跡だらけになってしまうように思う。




富田町での古い家
現在も自転車屋さん
ずいぶん以前からこの商売をしている
ようである。




さて、旧東海道はまた国道一号線に合流して、海蔵川にかかる海蔵橋を渡る。
河原ではビニールシートを敷いて大勢の人が花見の宴である。
しかし、今日は風が強く寒いし、桜も全然咲いていないし、花見にはならないのでは。
堤防には屋台の出店が出ているが、これではお客がいないのでは。
1週間経って来週の週末がちょうどいいような感じである。

橋を渡って、また旧道に入る。
「笹井屋」という「なが餅」という和菓子を売っている店がある。
天文年間の創業というから老舗中の老舗である。
店は現代的な店構えだが、店の裏をみると住居なのか、工場なのか、
いかにも古い店という建物である。

旧四日市宿の中心地に着いたが、本陣も脇本陣も問屋場もその跡という標識も
ない。
ガイドブックを見て、元の本陣などの跡地にできている建物(農薬店、建材店、
医院)を確認できた。
ガイドブックを持っていないと全くわからないところである。
四日市が賑やかな繁華街になりすぎたのかもしれない。





手差しの道標
文化7年とあるから、その当時からあるのか。
「すぐ江戸道」という字と反対側に「すぐ京いせ道」と書き込まれている。
すぐ向かうが国道一号線
旧四日市宿では他に撮るべきものがない。





国道一号線を横切ったところから、東海道はアーケードのある「ライオン通り」と
いう商店街になる。しばらくこの商店街を歩く。


これを過ぎると、浜田町という町に入るが、風景は一変して、古い町並みなる。
浜田町と通り過ぎる間、何枚かの写真を撮る。


南浜田町の町並み






午後1時半頃、街道筋の小さな神社へ入り、参道の横の石に座って、バナナを一本
食べる。
これが今日の昼食である。


四日市は桑名同様、神社やお寺の多いところである。
お寺は「浄土真宗 本願寺派」とうお寺が多かったが、進むにつれ「真宗 高田
派」というお寺が目に付くようになった。
いずれにしても、三重県は浄土真宗の強いところなのであろう。
織田信長も門徒衆の抵抗にはずいぶんてこずったんだったな。

この辺りの東海道は日永の追分まで一本道で、旧東海道の面影も残る道なのだが、
惜しむらくは車の通行が無茶苦茶多いことである。
国道一号線の脇道、側道、渋滞回避の逃げ道となっているのか、ずいぶん車が多
い。
それも狭い道で、やっと片側一車線ですれ違えるくらいなので、私のような通行人
や自転車が通っていると車がすれ違えないので、そこでまた渋滞する。


日永の追分は東海道と伊勢街道の分岐である。
国道一号線と伊勢方面へ行っている国道の間を旧東海道が通っており、一転して
静かな道を歩く。

また、一号線に合流して、そのまま鈴鹿市に入る。
鈴鹿市へ入って500米ほど歩いたところで旧道に入る。一号線の喧騒が嘘のような
静かな道である。いかにも田舎の部落という感じのところを歩く。
このまま、石薬師宿まで行くのかと思っていたら、1kmほどしてまた国道一号線に出た。
一号線を渡り、しばらく行くとまた旧道に入り、そこが旧石薬師宿である。

静岡県の白須賀宿より、さらにこじんまりした宿である。
宿ではないが、刈谷市の今川地区のような感じである。


小沢本陣跡
家の前に小さい石の標識に「小沢本陣跡」と
書いてある。これがなければ通り過ぎて
しまうところである。

小沢何某という表札がかかっていたから
何代目かの人がここで住んでおられるのでは
ないかと思った。



この宿は上記の本陣跡以外はまた全く何も無いところである。
さきほどの「小沢本陣跡」という標識がなければ、ここが宿場だったとは思えないだろう。

しばらく歩いたところに、「佐々木信綱生家」および「佐々木信綱資料館」がある。


佐々木信綱生家
よく保存されている。
この家の左側に資料館がある。



資料館は立派な近代的な2階建ての建物である。
トイレを借りたかったので、入館料が要っていいやと思って入る。

「今日は、ちょっと中を見させてください」と受付で声をかけると、中年の女性が
出てきて、「ここは無料ですから、ここに住所、氏名を書いてください」と記名簿を
出された。今日は私が初めての入館客なのか、前頁がちょうど終わったところなのか、
とにかくそのページでは私が最初に名前を書いた。
案内書を頂いた。鈴鹿市の施設らしい。そうでなければ個人では維持できないだろう。
私も、佐々木信綱という名前だけは知っていたが、短歌をポピュラーにした「サラダ記念日」の
作者の俵万智の早稲田大学時代の恩師である佐々木幸綱早大教授は、この佐々木信綱の
お孫さんに当るということである。

中へ入る。佐々木信綱は歌人、万葉学者で第一回文化勲章受賞、その受賞者のなかでは
一番若かったとか。

短歌、短冊、歌集、蔵書、人脈図などなど、佐々木信綱所縁のものが展示されて
いる。
それらを見ていると、先ほどの女性がお茶を入れてくれて、「もらいものですがどうですか」と
お饅頭まで頂いた。こういうことは初めてだ。喜んで頂戴した。
電車の時間が気になるが、急いで出て行くわけにもいかず、一通り見て、トイレを借りて
丁寧にお礼を言って立ち去った。
ガイドブックの地図を見ると、そこから関西線の加佐登駅まで2キロ半くらいある。
時間が25分くらいしかない。1台乗り遅れると1時間待たないといけないので、駅へ
一目散に急ぐ。一号線にでて、とにかく早足で歩く。
だんだん怪しくなってきたので、小走りに走った。
駅の改札口に廻っているあぶないので、手前の踏み切りから線路を走る。
駅のホームには電車を待つ人が出ている。
ホームにたどり着いて、線路からなんとかホームによじ登ったとき、電車がやってきた。
辛うじて間に合った。こんなことはしたくないが、1時間もこんなところで待つのも大変だ。

3時50分着、7時間35分、31.2km

電車は2両編成だが、満員である。ハイキング客が多い。
JR東海の「日本往来・東海道ウオーキング」の亀山〜関コースに参加した人が多かった
のではないかと思った。

丁度、午後6時に帰宅。今日の総歩数47,660歩。


以上