平成13年3月18日
JR豊橋駅〜旧東海道〜二川宿〜白須賀宿〜新居宿〜新居町駅(23.8km)
一ヶ月ぶりに歩きに行けることになったが、前日来の雨が心配だった。
朝起きるとまだ小雨が降っており、がっかりした。
午前中に上がるとの天気予報を信頼して、出かけることにした。
7時過ぎ、家を出たときには雨はほとんど上がっていた。
バス、名鉄電車を乗り継ぎ、JR大曽根駅で、JR東海の「青空フリー切符」を買う。
これは、東は豊橋の次の「二川」までJRが乗り放題という切符である。
今日のウオーキングのためにあるような切符である。
名古屋駅から8時20分発の豊橋行き快速で豊橋まで50分ほどである。
電車の中で、JR東海の「東海道ウオーキング」の地図を持った親子連れが
隣の席にいたので、話し掛ける。
この前は名古屋の宮から有松まで歩いたので今日は2度目だそうで、今日は
豊橋から赤坂まで歩くとのこと。
豊橋駅でスタンプを押し、トイレを済まし、9時20分歩き出す。
今日は風が強いが、快晴となった。
豊橋へはひさしぶりにきたが、(前月来たときは豊橋市の北端をかすめただけである)
駅前は立派な大通りである。前きた時のイメージを一新した思いである。
これから行く二川はここから東南になるが、市内の旧東海道をできるだけ辿るため
駅前大通を北へ向かう。
電線、電話線は地中に埋めたのか、電柱は見当たらない。
それだけでもかなり印象が違うものである。
豊橋駅前通り
松葉公園という交差点で右に曲がり、旧東海道を東へ向かう。
所々、「宿駅400年記念まつり
東海道五十三次 吉田の宿
吉田の宿を考える会」
という黄色ののぼりを出しており、それが風にはためいている。
ご存知のとおり、吉田は豊橋の旧称である。
「吉田通れば 二階から招く しかも鹿の子の振袖が」という唄があったそうだが、
その吉田である。
伝馬町、呉服町、鍛冶町、材木町など昔の城下町、宿場町のなごりの名前の町の
表示はあるが、旧東海道の面影は全くといっていいほど、ない。
私もガイドブックに出ている「本陣跡」を確かめようと思いながら歩いたが、
道が反対側だったせいもあるかもしれないが、ついに発見できなかった。
標識一本どうしても見たいというものでもないが。
JR東海の「東海道ウオーキング」の協賛している店もあり、そこはそれようの
のぼりを出している。
南北に走る広い道路に出た。
路面電車が走っている。
愛知県で路面電車が残って
いるのはここだけである。
私のような年代のものからいうと、路面電車というより市電という方が
馴染みがある。その方が親しみがある。
勿論、路面電車=市電ではない。
ここの路面電車は豊橋市電ではない。豊橋鉄道という私鉄である。
国道一号線に出る。ここでオーバーコートを脱ぎ、リュックサックにしまう。
風は強いが、寒さはない。
ひたすら、国道一号線を東南方向に歩く。
ここで、ウオーキングの人に会う。
どこまで行くのかと聞くと、二川から岡崎まで歩くという。
急いでいるらしく、それ以上話はしなかった。
二川〜岡崎は先月私が歩いたコースから更に8kmくらいは長い。
40kmは超す距離である。これは大変だと思った。
それだけ長距離歩く人は、自慢話を交えて、話好きなものだと思うが
この人はそうでもなかったらしい。一刻も急ぐという感じだった。
殿田橋というところで国道一号線と分かれ、旧道を歩く。
ひたすら歩き、また一号線を渡った辺りのすぐ近くがJRの二川駅である。
駅から二川宿の中心へは、旧東海道そのままの狭い道である。
古い町並みがそのまま残っているということではないが、
ところどころで古い建物が残っているという感じである。
二川宿の古い建物。
こういう感じの家がいくつか
ある。
二川宿本陣資料館
豊橋市のホームページの
豊橋のみどころによると
「東海道筋に現存する貴重な
二川宿馬場家本陣遺構を
改修復元。
新たに建設した土蔵風の
資料館とともに
「二川宿本陣資料館」として
一般公開しています。
大名などの身分の高い人が宿泊・休憩した「上段の間」を始め、主家、中庭などが
再現され、江戸時代の宿場の雰囲気味わうことができます」
一方、JR東海の地図の解説によると「五十三次の中でも三軒しか現存していない貴重な
本陣建物のひとつ」とある。
いずれにしても貴重なものらしいが、入場料300円。
中へ入らず、表から写真のみ撮る。
二川宿を出て、東海道本線の踏切を渡り、東海道新幹線のガードをくぐると
すぐまた国道一号線である。
ここから次の「白須賀宿」に入り口まで、約4kmは国道一号線をひたすら
歩くだけである。
道の両側に見渡す限り畑が続く。ところどころ工場の建物が見える。
吹きさらしの風通しの良過ぎるところである。
とにかく今日は「強風波浪注意報」が出ていたくらいで、風が大変強い。
向かい風でないから、まだましだが、まともに歩けないくらいである。
帽子をしっかり押さえていないと風に吹き飛ばされてしまう。
浜名バイパスへ向かう一号線と分かれて旧道へ入る。
しばらく行くと、「静岡県」「湖西市」の標識あり。
やっと静岡県か、なんとかここまで来たもんだとちょっぴり感慨を覚える。
県境は特になにも感じなかったが、ガイドブックを後で見たら境川という川が
あったらしい。
旧道から更に細い道に入って行くと、そこが白須賀宿の入り口である。
古そうな家もあちこちにあり、古い旧東海道の面影がそこはかとなく感じられる。
静かな田舎町というより、田舎部落である。
白須賀宿
町を歩いていて、やっと、「脇本陣跡」という小さな標識をみつける。
「本陣跡」もこの辺りだったらしいが、見落としたのか、分からなかった。
白須賀宿はなにもないところである。
本陣跡は復元している訳でもないし、資料館があるわけでもない。
要するに、観光あるいは市の宣伝のために、ことさらそういうものを
作っていないということである。
あるのは、いくつかの古い建物、それも町並みというほどの規模でもない。
鉄道からも離され、基幹国道も通っていない旧宿場町で、これだけ
何もないところも珍しいだろう。
それだけに私はここに好感を持った。こんな感じの町が好きである。
白須賀宿の中心街のぞれぞれの家に
「東海道五十三次 白須賀宿 何々屋」という看板が貼り出してある。
その何々屋というのが、近江屋、紅葉屋、常盤屋、藤屋などである。
自転車屋も一軒あったが、今はほとんどが普通の民家である。
それでもこんな看板を上げているということは、これらの家の先祖が
そういう名前の旅籠を営んでいたのだろうかと想像される。
そこに白須賀宿の自己主張を見る思いがした。
白須賀宿の家並み
白須賀宿を出て、道なりに坂を下ると国道一号線に出た(実はここで間違った
その途中で旧道があるのを見落としたらしい)。国道一号線に出たところが
潮見坂である。
潮見坂より太平洋を見る
海の手前に見えるのが
東名高速道路
海を見るのも久しぶりだ。
昔、東名高速がまだ無かった頃、丁度ここで昼食をとる長距離トラックの
運転手が多かったそうである。今でも運転手用の食堂が数軒あり、大型トラックが
かなり停まっていた。
国道一号線から細い道に入って、そこが一変してまたいかにも旧東海道である。
古い家も軒を並べている。
新居宿のほうから来ると白須賀宿への案内標識があり、ここで私が旧東海道から
間違った道をここまできたことを知った。
そこから白須賀宿へはかなりの上り坂になっている。
この辺りが白須賀の元町(元宿)というらしい。
元々白須賀宿はこの辺り、潮見坂の下にあったが、宝永年間の大地震による津波に
より壊滅的な被害を受け、それで現在の場所(潮見坂の上)に移したそうである。
ここから新居宿はほとんど一本道であり、なんとはなしに旧東海道という感じが
する。
ここで、私くらいの年々の男性に会う。例の地図を持っている。しばし雑談。
静岡の人だそうで、このウオーキングでは東は三島までいったそうで、後小田原へは
途中一泊も必要かと思い思案中だそうで、今度は西へ向かってきたとのこと。
今日は浜松から歩いてきて、二川まで行きたいという。
私のことも聞かれたので、今日の予定を話す。
お互いがんばりましょうということで分かれた。
それにしても、浜松〜二川もなかなかのものだ。30kmはあるだろう。
簡単に歩ける距離ではない。
その内に、女性二人連れ、夫婦連れ、男性一人に会う。いづれも東海道ウオーキング
らしい。とくに男性一人の人は道の反対側の人道を歩いておられたが、大きいマスクを
しておられた。私に気づいて同じ歩く仲間という意識からか、わざわざ手を上げて
挨拶された。誰か知っている人だったかなと思ったくらいである。
松並木。
道の片側だけの松並木だが、長い。ガイドブックでは1.3kmとあったがそれくらいは
あるのだろう。
これだけ長い松並木は東海道でもないので
はないかと思った。
後はどんどん歩くのみ。
新居に近くなり、また一号線と合流。
しばらくしてまた一号線と分かれ左折して、北へ向かう。
突き当たったところに3つの本陣跡という標識あり。
そこで右折するとすぐ、新居の関所である。
新居関所
安政年間に建造された関所の
建物が今も残っている。
関所の建物が残っているのは
ここだけということである。
関所の横に資料館あり。
入場料300円。
関所に入らず、駅に向かう。
JR東海道本線新居町駅着、2時40分、5時間20分、23.8km
電車が出たばかりなので15分待ち、豊橋で快速に乗り継ぎ、5時過ぎに
帰宅。
この日の総歩数は41,860歩。
以上