平成13年2月4日
名鉄知立駅〜旧東海道〜岡崎市内若宮町バス停まで18.9km
先日の続きで、知立〜岡崎まで歩いてきた。
朝、8時前に家を出て、知立駅を9時半に歩き出す。
まず、最初はこの前要ったとき確認できなかった知立宿本陣跡の確認である。
ガイドブックを見ると、今川屋といううなぎ屋さんの水槽の横にあると書いてある。
それならこの前の時も傍まで行った覚えがある。
行って見ると、確かに水槽の横に「池鯉鮒宿本陣跡」という石碑が立っている。
道に対して真っ直ぐではなく、横向きになっていて、何か遠慮がちに立っている。
その地を訪れた人には分かりにくい。
この石碑は建立が昭和40年代と書いてあった。案内板は知立市のものである。
やはり「知立」ではなく「池鯉鮒」であった。
(別のガイドブックによれば、「知立」への改称が明治3年だそうである。)
この池鯉鮒宿本陣跡の解説によれば、本陣だった何々家が没落して、別の旅籠が
本陣になったとある。
ガイドブックには本陣は格式はあるが、宿泊する人が、大名、公家、幕府の高官などに
限られるのにもかかわらず、格式を維持するため、それだけの使用人、本陣となる建物を
維持しなければならないので、経営的には苦しかったそうである。
その点、脇本陣は本陣に収容できない大名とかの宿泊客がある場合など特別のときを除いて、
一般の旅人を宿泊できたので、経営的には楽だったとか。
そこからまた、今きた道へ戻って、旧東海道を歩き出す。
賑やかな中心街を離れて、やや人通りの少ない道を行く。
それでも、ところどころに昔風のいかにも古そうな家が残っている。
そんな一軒の写真を撮る。
反対側に旅館という看板があるが、こんなところで泊る客がいるのだろうかと疑問に思う。
そんな時、1台の車が私の横で止まった。私の道を聞くらしい。
「旅人に道を聞くなよな」と思いつつ、歩く足を止めると
「チリュウエキハドコデスカ」とアクセントに特徴のある外人のようである。
外人なら仕方がないかと思いつつ、「駅はあっちだよ」と指差すと
「イチゴウセンノホウデスカ」とか聞く。
「そうだよ、ここ真っ直ぐ行って、1号線を通り越して、しばらく行って
左へ曲がったらあるよ」と教えてあげた。
よく分からない、多分はじめてのところへ自分ひとりで運転してくるとは
えらいものだと感心する。
やがて、「知立の松並木」に着く。
両側に松並木が真っ直ぐに伸びている。約500メートルはあろうか。
車の往来の多い道である。車の途絶えたところで写真を撮る。
道の向かい側には、昔この辺りにあった馬市の説明板があった。
こうして見ると、松の保護のためむしろを巻いてあるが、大体地上1m
くらいのところに揃っているものである。
よくわからないが、そういうものなのであろう。
来迎寺という知立市の一番、安城寄りのところに着く。
一里塚が残っている。
東海道からはすこし外れるが、すこし北にカキツバタの名所がある。
在原業平ゆかりの地である。
在原寺、業平塚という名前のものがある。
伊勢物語の
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをぞおもふ」
という「かきつばた」の頭の5字を入れて詠んだ有名な歌はここで詠まれたとか。
安城市に入り、一本道に近い東海道を淡々と歩く。
全くと云っていいほど、平坦な道が続く。
尾崎町というところに、熊野神社という神社があり、その入り口に予科錬の碑というのが立っている。
「岡崎第一陸軍航空隊跡」とかで説明板があった。
太平洋戦争末期にここに急遽航空隊が作られたとかの経緯が書かれている。
少し離れた所に、数十名と思われる人の名前が刻まれた碑がある。
多分ここから飛び立って行った予科錬の方々であろう。
こういうところにも、戦争の痕跡があるものである。
合掌
安城市内にもすこし古い家並みが
あったので写真を撮る。
安城市でもところどころ松並木が残っており、
「東海道の松並木を守ろう」という看板も見た。
尾崎の松並木は、ややまとまって残っているところである。
知立の松並木に比較すると、やや見劣りするか。
やがて、国道1号線と合流し、車の往来の多い、広い道を歩く。
岡崎という字が目につくようになり、もう岡崎市に入ったのか、まだ安城市なのかと思いつつ、
道の反対側を見ると「矢作小学校」という字が見えたので、「あ、もう岡崎か」と思った。
しかし、そこからしばらく行ってから、岡崎市という標識に出会ったので
そこからが岡崎市なのであろう。
1号線と分かれて、北側の細い道が旧東海道である。
古そうな家も数軒見かける。
矢作川に出て、矢作橋を渡る。
橋のたもとに「出合いの像」というのがある。
蜂須賀小六と日吉丸(後の豊臣秀吉)を表したものらしい。
江戸時代の矢作橋は今の橋から数十メートル南にあったらしい。
勿論、当時でも長い橋だったらしい。
橋を渡り、川沿いに南に下りて、旧東海道を探して歩く。
少し東へ進み、また南へ歩く。
道標があり、ここが「岡崎27曲り」のスタートである。
「岡崎27曲り」とは、東海道は岡崎宿の中では27回曲がるということである。
東へ行き、北へ行き、すこし東へ行くと今度は南へすすむ。
するとまた東へ少し行くとこんどは北へ行く。こういう具合に南北へ歩くのを繰り返しながら、
東へ進んで行くということでこれが27回繰り返すということである。
どこの城下町、宿場町でも大なり小なり、鍵形、枡形の道には
なっているが、岡崎はその極端な例である。
「岡崎27曲り」については、ガイドブックにも出ていたので、その曲がるところには、
必ず標識があって誰でも分かるのか不安があったので、岡崎市役所の文化振興課へ電話してみた。
標識もあると思うが、念のためパンフレットを送りますということで、親切にもすぐパンフレットを
送ってくれた。
岡崎商工会議所が作ったリーフレットのコピーである。
結論的に云えば、この地図がなければ、正確には27曲りは辿れないと思う。
曲がる個所には、標識のないところの方が多い。
しかし、丁寧に全部27曲りを通らなくてもいいのだ。
行きつくところは分かっているのだから、適当に省略して進むほうが
効率的ともいえる。
八帖町というところにある「八丁味噌」の味噌屋さんがあるところ。
老舗が2軒あるとか。
なかなか風情のある町並みである。
ここから東へ進み、左折して、北へ向かい、国道1号線に突き当たる。
これを越えるため、信号のある交差点まですこし遠回りする。
しばらく地図では道が分岐しているのに、行くべき道がない。
おかしいなと思ってすこし戻ってみたが、道がない。
諦めて、そのまますすんで川沿いの道に出る。それを北へ向かう。
考えてみれば、当時の道がそのまま残っていないのも当たり前だ。
戦争がこの辺りは焼けたろうし、土地整理もあって不思議でない。
何とかいう橋を渡り、広い道を東へ向かう。
広い東西に走る道に面して
古い家があったので、写真をとる。
なにか由緒のある商家である。
町の中心街にある
岡崎27曲りの案内板
白く太い線が27曲りである。
その後、いつか道を曲がり、岡信資料館に出た。
元の岡崎信用金庫の本店である。大正時代の赤レンガ造りの建物
岡崎信用金庫の歴史そのたの
資料が展示されているそうである。
この日は何かの写真展が開催されて
いた。
岡崎宿の中心街は、全くといっていいほど昔の面影はない。
西本陣跡の標識が映画館の前に小さく立っていた。
東の本陣は大きな道の交差点にあり、一等地にあるが、今は花屋のある
場所にあったらしいが、その標識もない。
ガイドブックなりを読まなければ、まったく分からないだろう。
そうこう歩いているうちに賑やかな中心街を離れ、落ち着いた町並みをあるく。
東海道からはすこし離れるが、岡崎市郷土館へ寄る。
昔の大正時代に額田郡公会堂として立てられた建物である。
大正ロマンといえば、そんな感じもする。
古文書などを展示しているらしいが、中へは入らず。
また、旧東海道に戻り、若宮町の「岡崎27曲り」の案内板へ着く。
東からくればここが27曲りの始まりである。いわば岡崎宿の入り口である。
初めは、今日は次の藤川宿まで歩くつもりだったが、今日は丹念に「27曲り」を
歩いたので、後6kmは歩くのはちょっと厳しい。
今日はここでウオーキングを終わることにした。
歩き始めて丁度4時間だった、18.5kmである。
それから名鉄バスの若宮町バス停まで歩いて、バスに乗り、東岡崎に出て、
名鉄電車で名古屋へ向かった。
余談だが岡崎27曲りは徳川家康が戦略上で作ったのかと思ったが、そうではないらしい。
家康が関東へ移らされた後、岡崎城主となった田中吉政がそれまでもっと南を通っていた
東海道を岡崎の城下町に持ってきて、また徳川家康の襲撃に備えて27曲りを強引に作ったらしい。
また、田中吉政は非常に土木工事に熱心で、いろいろ大規模工事をして
今日の岡崎の基礎を築いたとガイドブックに書いてある。
以上