平成20年11月29日     わが心の大阪  夕陽ヶ丘

                                

大阪の地を離れて、はや四十数年。それでも、自分自身は。大阪で生まれ育った大阪人ということを忘れた日はない。
むしろ、年を取れば取るほど、その意識は強くなっていくようにすら感じる。

夕陽ヶ丘と言っても、そこに住んだこともなければ、そのあたりの学校へ通っていたわけでもない。

しかし、夕陽ヶ丘という言葉に、独特の郷愁、あこがれ、思いこみがある。

それはなぜか。

それを確認することも兼ねて、去年の11月末、夕陽ヶ丘を訪ねてきた。

ちょうど大学同期会のハイキング会があり、大阪へ行くことになり、朝も早いので、大阪に前泊することにした。
そこで、空いていた午前中に夕陽ヶ丘を訪ねてみた。

その目的は三つである。

 1 大阪復興博の痕跡はないか 

戦後まもなく(正確にいうと昭和23年)、大阪市内の南の方で、「大阪復興博覧会」という博覧会があった。
わたしが小学5年生のときである。かすかな記憶しか残っていない。
そこが、夕陽ヶ丘ではないかと思っていた。
インターネットでしらべたところ、その当時、今で言うパビリオンとして使われていた建物が復興博のあとも、
公共施設として使われていたらしい。


その一つが大阪婦人会館である。それも建て替えられたそうであるが、その所在地はわかっているので、行ってみたい。

2 夕陽ヶ丘にあった府立会館はどうなったか

確か高校2年のとき、文化祭のようなイベントがあった。
そのときの建物がどこにあったて、どうなっか、調べてみたい。
同じ府立の大阪社会事業短期大学が夕陽ヶ丘にあったそうであるが、わたしの想像では、そこがその会館の跡ではないかと思われる。
その社会事業短大は、大阪府立大学に吸収されたが、短大閉学時の地番はわかているので、そこを訪ねてみる。

3 小松帯刀の墓跡

 NHKの日曜日のテレビ「篤姫」の副主人公である小松帯刀は、明治新政府で重要なポストにつきながら、
病気のため辞任、大阪で療養していた。 
明治3年36歳の若さで、大阪で病没。夕陽ヶ丘に葬られたが、のち
に墓は郷里・鹿児島に移された。
その墓跡を訪ねてみたい。

さて、その日地下鉄谷町線の「夕陽ヶ丘・四天王寺前」で降りた。
その婦人会館を取り壊して、その跡地に建てられた「クオレ大阪中央」を訪ねた。




クオレ大阪中央全景






事務所へ行って、なにか、この前身の婦人会館の資料、写真はありませんかと尋ねると、
婦人会館の模型は1階の入口にありますとのことだった。
大阪復興博の関係資料は、まったくないので、天王寺図書館へ行かれたどうですかと言われた。


クオレ大阪中央内部図書室

いろいろな団体、グループがこの建物を利用しているようである。



この建物の前身の大阪市立婦人会館のミニチュア



写真を撮って、「なんだ。これは」と思ったのは、その模型に付いていたプレートに
「大阪市立婦人会館 Since 1962.10 」と書いてあることである。


すると、この建物の前身の婦人会館は、昭和37年建造になる。
その婦人会館そのものも、復興博のパビリオンではなかったのだ。
昭和23年ごろの建物が最近まで使われていたというのも、やや不自然な気がしていたが、やはりそうか。
復興博のパビリオンも婦人会館という名前で昭和30年代中ごろまで使われていたが、建て替えられ、
そして2代目の婦人会館も、最近取り壊し、今の会館になったということらしい。


すぐ横に天王寺郵便局がある。



天王寺郵便局




ここも復興博当時の建物を郵便局として使用されていたものを立て替えたものと思われる。
土曜日で聞く人もいなかった。当時のことを知っている人もいないだろう。

いずれにしても、このあたりで復興博があったのは、間違いない。
わたしのかすかな記憶にあるのは、天王寺駅から歩いて行った小高いところというイメージである。
当然ながら、まったくこの付近の様子は違う。こんなところで、復興博があったのか。

復興博があったことを伝える記念碑一つない。

「大阪復興、うれしいじゃないか」というのが、テーマソングだった。

そんなテーマソングとともに、大阪復興博覧会は、当時の人々の遠い記憶の中に埋没しつつある。

2 小松帯刀の墓跡

なにしろ、小松帯刀の墓は、郷里の鹿児島へ移されたので、こちらには何も残っていない。

あるホームページよれば
「明治時代の政治家陸奥宗光が、愛娘が亡くなったとき、夕陽ヶ丘に葬った。
そこが、その前に小松帯刀の墓があったところ」という記載があった。

そして、陸奥は、娘のためにここにお地蔵さんを立てたそうである。
娘の名前を取って、「清地蔵」(さやじそう)と名付けられたそうである。



清地蔵





清地蔵の由来が書かれている説明




そのお地蔵の前にある称念寺というお寺に小松帯刀の墓があったのかもしれないが、
門も閉じられているし、尋ねる人もいない。

3 大阪社会事業短大の跡地

高校2年生の時と思うが、谷町筋から少し上へ上がった大阪府の会館で、文化祭のようなイベントをしたことがあった。
なぜ学校の講堂を使わなかったのか、わからない。講堂が修理中だったのかもしれない。

そこで、わたしが所属していた文芸部がラジオドラマをやった。
ラジオドラマというのは、テレビがない時代の声だけの劇である。
もちらんそのイベントは、文芸部だけの出演ではなく全校参加だった。

そのラジオドラマの脚本をわたしともう一人の友人の二人が書いた。
彼が書いた後をわたしが書き、その後をまた彼が書くという具合である。
適当に書き継いでいくのはいいが、ややちぐはぐになる。まともなストリーになるはずがない。
時間の制限もうまく調整できず、尻切れトンボで終わった。
変な終わりかただという意味の批判も
いただいた。
とにかく無事終わってやれやれだったというのが、正直なところだった。

その場所がどこだったのか、どうなったのか。最近気になりだして、一度訪ねてみたいと思っていた。

森ノ宮にあった大阪府立社会事業短大というのが、夕陽ヶ丘へ移転したというのは、なにかで知った。
同じ府立だから、その社会事業短大の移転先が、わたしたちが、イベントをやった会館を転用したものではないかと思われる。
その短大は、やがて大阪府立大学に吸収され、社会福祉学部となった。その後もここで校舎があったようでる。
しかしその後、中百舌鳥かどこかへ移ったので、夕陽ヶ丘キャンパスは廃校となったということである。

この近くで見た、その付近の古い案内看板では、
ちゃんと「大阪府立大学社会福祉学部」と出ている。



そこへ行ってみた。かなり大きいテニスコートがある。この近くの大学がテニスコートとして、借りて使っているようだった。




元の大学の敷地の一部がテニスコートになっているらしい。



その奥は、雑草が茂っている空き地である。その向こうが、長い坂である。




長い坂

この坂が正面からの入口だったのだろう。

この坂道に覚えがあるような気がする。



いったん、坂を下り、下から撮す。






坂を上ったところに、コンクリートの柱があって、
なにか建物のネームプレートでもはめ込まれていた形跡がある。





「たぶん、ここなんだよ。あのイベントをやった会館があったのは。」



建物は、取り壊され、なにもない。
雑草が生い茂っているだけである。





雑草の生い茂ったところでたたずんで、しばらく呆然としていた。


あれは、昭和29年の秋だったように思う。あれから55年か。半世紀以上も前のことだ。

わたしの記憶の中に、かなりはっきりとその日の様子が残っている。

一緒にラジオドラマの脚本を書いたあいつは、どうしているんだろう。
社会人になってからも、一度会った記憶である。元気でいるなら、

元気でいるなら会ってみたい。

おーい、生きているなら、おれの呼びかけに答えよ。


そう大声で呼びたかった。


ここにも、わたしの青春の一ページがある。


夕陽ヶ丘は、風ばかり。


以上