平成20年1月19日

 わが心の大阪

 JR京橋駅〜桜宮大橋〜泉布観前〜藤田邸跡公園〜藤田美術館〜天満橋〜天神橋〜
伏見町、道修町、平野町、今橋、北浜〜中之島公会堂〜中之島図書館〜大阪駅

大阪へ行く用事があり、予定が変わって、時間ができたので、上記コースを歩き、写真を撮ってきた。
今までにも、同じ場所で何回か写真を撮ったこともある。

JR京橋駅で、立ち食いのうどんを食べ、西に向かって歩き出す。
とりあえず、泉布観、旧桜宮公会堂の写真撮りである。
あの園内へ入れるかなと心配をしつつ急ぐ。

桜宮大橋の改修工事で、新しい橋は完成したらしい。
この橋は、元の橋の川上側に架けられた。
今は両側通行になっているが、現在改修中の
元の橋の工事が済むと、東行きの一方通行になるようである。



改修工事中の旧桜宮大橋(銀橋)

車の通行を止め、人だけ通れるようになっている。




泉布観、ユースアートギャラリー(旧桜宮公会堂)への
入口は、閉鎖されていた。

何が、重要文化財だ、バカにするな。

近くにいたガードマンの兄ちゃんは、
以前いたユースアートギャラリーの管理人も
予算がなくなって、おらんようになって
安全、保安のため、入口を閉めてしまったとのことである。

建物の中まで入ろうとは思わないが、
せめて園内へ入って、外から写真を撮れるようにして
もらいたい。




しかたがないから、扉のすき間に
手を突っ込んで、写真を撮った。
左側が、泉布観、正面が旧桜宮公会堂
いずれも重要文化財と思ったが。

いくらねばっても、中へはいる手だてがないので
あきらめて、太閤園の方へ歩き出す。
太閤園なら古い建物があるかと思ってのことである。




太閤園手前のある藤田邸跡公園があったので、そこへ入った。

藤田邸跡公園は、明治時代に実業家として、その名をはせた男爵藤田伝三郎氏の
邸宅の一部を、桜之宮公園として整備したと案内板に記載されていた、


公園の内部





藤田美術館

公園の中から見た建物

この後、表門に回って中を見学しようと思ったら
3月中まで休館とのことだった。




公園の入口

立派な門である。

散歩するのに、ちょうどいいのか
散策する人が何人か見受けた。



この後、太閤園にもよってみたが、外からは大した写真にならないので、
天満橋方面に歩き出した。


天満橋交差点から西へ2〜300メートル行ったところに
この記念碑があった。

京と淀川を上るのに、このあたりから
船が出ていたのか




先ほどの船着場跡から100メートルくらい行って、
南へ入ったところに、この石段がある。

この石段の手前右側に、今から57年前
わたしが新聞配達のアルバイトをしていた
新聞販売店があった。

もちろんそのかげもない。
しかし、この石段だけは昔のままである。
この石段のおかげで、新聞屋の場所が
わかった。
この石段は、たぶん戦前からのものだろう。



この石段を上がってところに小公園があった。
今も公園になっているが、こんなに広い公園ではなかったと思う。
その公園の前に、このあたりでは大きな日本旅館があった。


これが、その大乃やという旅館である。
その当時は、もっと日本式の旅館だった。
今の建物は、後年建て直してものだろう。

今は旅館よりも料理店として営業している様子

天ぷらが、3コースあって
5300円、3200円、2100円と書いてある。

休日の家族連れで結構賑わっているようだった。
横はイタリア料理かの店にしているようである。



入口から玄関を撮す。

その当時、日本旅館で
旅館だから、新聞をまとまって
たぶん10部くらい取ってくれていた。

新聞屋からすれば、大得意だった。

わたしも、ここのお客となって
天ぷらを食べたら昔の話も
聞けたかもしれないが、そこまで
するつもりもなかった。



新聞少年のころ

懐かしさのあまり、そのころの思い出を書いておきたい。

わたしは、昭和26年から27年にかけて、中学2年生のころ、1年あまり、ここの新聞販売店でアルバイトをした。
自宅近くの新聞屋ではなく、電車に乗って、わざわざこの店にきていたのは、自宅の近所の同じ年の友人二人が
ここの店でアルバイトをしていて、空きができたので、誘ってくれたからである。

そのころの新聞販売店は、現在のように新聞社の系統別になっておらず、地域別だった。
だから、その地域内のお客さんに対して、全部の新聞を配るのである。この新聞店では、朝日、毎日、産経、日経、
その他のスポーツ新聞を配達していた。そのころ、まだ大阪には読売新聞はなかった。
だから、どの家がどの新聞を取っているのかを覚える仕事から始めるのである。家の軒先にチョークでしるしを付けていた。
そのほかにも、どこの家がどの新聞を取っているか、書き込んだ横長の紙をつづったものも持っていた。
それでも配達間違いは、しょっちゅうである。もちろんお客には怒られる。
あまりにも間違うので、集金人がお客に怒られて新聞代を払ってもらえない。配達しているものに集金に寄こせといわれて
わたしがおそるおそる集金に行ったこともあった。
配達人は、まだ中学生の子どもだったので、その家の主人は、あっさりお金を払ってくれたことがあった。

そのころはスポーツ新聞が発刊されてまもないころだったと思う。
スポーツニッポンという新聞が人気があったのか、お客さんの部数だけ、新聞社から送られてこない。
逆に、デイリースポーツは人気がなく、余る。そこで、スポニチを取っている家に順番にデイリースポーツを
わざと間違えて入れていくのである。勿論お客さんは怒ってくる。それを済みませんとかいいながら
ごまかすのである。そんなこともあった。

そのころ、そこから近くにあった大阪郵政局の建物が進駐軍に接収されていた。当然アメリカ兵がたくさんいた。
そのアメリカ兵の相手をする日本人の女性もいた。「オンリーさん」と呼ばれていたと思う。
そんな女性は、新聞屋の近くの家に間借りをしていた人が人が何人かいた。
彼女らは、自分の相手のアメリカ兵に用事があるときは、新聞店の電話を借りに来た。
そして、結構用件は通じる英語を話すわけである。
新聞屋の主人も、「あの人らは、書く方や読み方はさっぱりやが、話すのは結構やりよるな」とか
言って感心していたのを思い出す。
わたしも中学で英語を習っていたから、アメリカ人と会話をするなんて、夢のまた夢だったから
その女性たちが、英語を電話越しで会話するのにはずいぶん驚いたものである。

京阪電車に乗って毎日朝、新聞店へ通っていた。さすが通学定期とはいかないが、
通勤定期を買っていた。店が定期代を出していてくれていた。
その時分は、新聞休刊日もなかったし、日曜日も夕刊があったかもしれない。
この点は記憶がはっきりしない。

そのころ京阪電車は天満橋駅が終点である。駅の構内に公衆電話ボックスがいくつかあった。
たぶん、そのころ公衆電話を電話ボックスかけるのは無料だったと思う。
だから配達を済ませて、帰るとき、新聞店に同僚がいるはずなので
鼻をつまんで声を変えて「おい ○○だが朝刊まだきとらんぞ」とか電話して、いたずら電話をしたものである。
わたしの声はよくわかりやすいのか、「おまえ、蜂谷やな。また、いたずらする」とか言って怒られたものである。

電話かけるのが、タダだったとは、今から想像もつかない話だが、そんな時代もあったということである。

中学3年になって、しばらくして、母親が、もう新聞配達のアルバイトをやめてもいいと言ったので、やめた。
別に好きでやっていたわけではないが、嫌いでもなかった。
わたしは、アルバイト代をそのまま家に渡していたので、家計の足しにもなっていたと思う。
そんなときに、母親がアルバイトをやめてもいいと言ってくれたのは、意外な感じがしたし、今でも
どうして、そんなことを言ったのか、不思議である。
わたしは、好きでやっていたわけではないので、喜んでアルバイトはやめた。

アルバイト代は、そっくり母親に渡していたつもりだが、少しは欲しいものがあれば、そこから
お金をもらっていたのかもしれない。
小川芳雄というNHKのラジオ講座の講師をしていた人が、編集していた英語の通信講座を
購読した。そのお金は、そのアルバイト代から出してもらったのではないかと推測する。
この講座は、英語の基礎を繰り返し、繰り返し、徹底的に教え込むいい教材だった。
わたしは、英語は好きではなかったし、成績もよくなかった。
それが、この通信教育を受けてから、いっぺんに英語が好きになったし、得意科目になった。
通知簿的にいえば、「3」がいっぺんに「5」になったようなものである。
そのころの中学生は、まず家で勉強することはしなかった。
どこの家も貧乏所帯である。子どもが家で勉強するには、その場所がいる。そのための机がいる。
筆記道具がいる。紙がいる。子どもにそんなことをさせる余裕は、どこの家でもなかった。
家で勉強はしないのが普通である。そんなときに、わたしは、とびきり優良な教材で勉強したのである。
成績が上がるのが当たり前である。
わたしは、その後ずっと英語は得意だったし、成績もよかった。
その根は、この新聞配達にあった。そういう意味では、この新聞配達のアルバイトは、わたしの人生に
大いにプラスになったと、感謝したい。

3年生になってしばらくして、新聞配達をやめた。
同級生には、3年になっても続けていたのもいた。彼らは小遣いには不自由はしなかった。
しかし、睡眠不足と疲れで、肝心の授業がおろそかになって、生活を乱していくものが多かった。

そんな中で、母親がわたしに新聞配達をやめさせたのは、貧しい家計の中で、
たいへんな決断だったようにも思われるが、正解だったと思う。
わたしは、家で勉強したことはほとんどなかったが、授業はしっかり聞いていた。
結構、それだけでいい成績が取れた。
それが、そのまま新聞配達を続けていたら、そうはいかなかっただろう。
母親は、目先のお金を放棄する代わりに、長い目で見て。息子の人生を助けてくれたのかと
教養とは無縁だったように思われた母親は、案外見る目があったのかもしれない。
数年前に90歳でなくなった母親に十分親孝行もしなかったかと
後悔の念にかられて、これを書きながら、涙が出てきた。


つい長文の思い出の気になってしまった。
上記の旅館を確認できたので、そのころの自分の配達受持区域は
どうなっているかと、歩き出したが、まったくわからない。
当たり前のことである。

そのころ、わたしの受持に、日経新聞の社員寮があった。
日経新聞大阪支社がこの天満橋にあった。
日経の社員は、自社の新聞を新聞配達店から買うのである。
そこへ夕刊を配達にいくと、その社員寮の子どもが
「夕刊屋さん、夕刊屋さん」と言いながら、わたしの後をついて歩くのである。
わたしが配達にいくのを待っていてくれたような感じがした。
可愛いい子どもたちであった。


そんなことを考えながら歩いているうちに北浜まできてしまった。


三井住友銀行
何支店というのかな
元は、三井銀行大阪支店だった(はず)

三井と住友
写真で取りたい建物が残っているのは
100%近く元三井銀行である。

住友銀行の支店の建物で
写真に撮りたい建物は
ありますか?
たぶんないでしょう。



三井住友銀行の堺筋を挟んで立っている
高麗橋野村ビル

このビルも戦前からの古いビルと思う。





三越大阪店が取り壊しになって
その後にマンションが建設中である。

三越大阪店は、阪神大震災で
打撃をうけ、半分くらいのスペースで
営業を続けていたように思った。



道修町角の小西儀助商店

登録有形文化財になっていたと
思います。




青山ビル

これも戦前からの古いビル。

中華料理店が入っているようである。



伏見町から道修町に入って、神農さんの写真を撮りに神社へ入った。


ビルの谷間の「少彦名神社」(神農さん)

ビルの間にひっそりと神社がある。

お祭りのときは、それなりにぎやかだそうである。



道修町から平野町へ


イトーキの本社?あるいは創業の建物?

オフィス家具などのメーカーのイトーキの
発祥の地ではないかと思う。

今は、ここを使っていないだろうが
それなりの記念に残してあるのかな。



堺筋平野町の角にある生駒時計店ビル

これも古いビルですが
1階は、レストランのような感じがする。


生駒時計店ビルより少し西によった角に旧日本短資大阪支店だった建物があった。
こじんまりとはしていたが、いかにも古き良き時代のビルで、わたしのお気に入りだった。
それらしきビルはない。取り壊されて、展示場になっている。
その前にドトールコーヒーがあったので、ちょうど休憩に入る。


ドトールコーヒー

コーヒーは180円

今日は土曜日なので、客はわたしだけ。

店長に、この店は何年になるのと聞くと
オープンして20年になるとのこと。

そんな昔からあるのか。
日曜日は休みとか
店を開けてもお客がいない。

この店の前にあった銀行の建物のことを聞くと
去年だったか、一昨年だったかに、取り壊されたとのこと。
長い間、店舗は閉まっていたとのこと。

平日は、お客で満員だそうである。




店の中も落ち着いた雰囲気である。

平日は、ぎっしり詰めて座っているのかな




小川香料ビル

これも古いビルだが、現役で活躍しているようである。




平野町から道修町に戻る。


武田薬品道修町ビル

武長の本社だと思う。

今は、この右側に高層の立派なビルがある。



老舗の薬品メーカー

営業所、工場、研究所は、どこかほかの場所にあるようだが
本社だけ、ここに残してあるようである。




芝川ビル

この後ろに新芝川ビルという新しい大きなビルがある。

このビルの1階は、ベトナム料理だったか
外国料理の店になっていた




日本基督教団浪花教会

これが、大阪市中央区のレトロなビルの原点だと思う。

設計は有名なヴォーリズである。
ヴォーリズは、近江八幡の近江兄弟社の創業者で
大阪の大丸百貨店その他たくさんの有名なビルの設計者である。



この教会の入口が開いていたので、中へはいり、そのまま
階段を上って、2階のチャペルへ


中の写真を撮らせてもらった。
落ち着いた教会である。





旧大中証券ビル

浪花教会の隣りのビルである。

今はレストランになっているようである。

いい感じのビルである。
こんなビルが、商都大阪のど真ん中に残っている。



旧大中証券ビルの前の通りを北へ歩いていったところに
やはり古いいいビルが残っており、現業中である。


八木通商ビル

昔は、農工銀行とかの建物だったと
思う。

これも古いビルである。



北へ歩いて、中之島に入る。


中之島公会堂

中之島公会堂は
大阪のシンボルだと思う。

きれいになり、余計愛着がわいてくる。

中へ入ってみた。



中之島公会堂の内部

いかにも戦前のビルらしい重厚さが
ある。
この感じは、古いビルだけが持つ
匂いのようなものを感じた。




大阪府立図書館
時間があったので、40数年ぶりに中へ入った。

何何をしてはいかんとか、その小うるさいのには
あきれた。
尊大なのは、昔のままである。
それでいて、日祝振り替え休日は休み
第3木曜日は休み、年末年始は長く休み

大阪府民の便宜を考えるより
ここで働いている職員のことだけ考えている。
今どき日曜日休みの公立図書館は、全国にも
ここぐらいでしょう。
大阪府民がよく黙っているね。
ここの本のコピー複写の申込書の宛先が
大阪府立図書館長様と印刷してある。
いったい何様のつもりだ、今思いだしても腹が立ってくる。
バカにしやがって。


大阪駅で友人と待ち合わせしていたので、図書館を出て、歩き出した。

以上