平成19年11月30日  


番外編  随想 「ある友に  未完の墓碑銘」

年もだいぶ残り少なくなってきて、ぼつぼつ喪中の案内をもらうようになった。
なんだか、今年は例年よりだいぶ多いような気がする。

その中に、わたしの大学時代の友人の死を知らせるものがあった。

「えっ、あいつが死んだのか」と驚いて、すぐ電話した。
奥さんが、出られて、彼が今年の5月、肺ガンで亡くなったことを知った。
去年3月に肺ガンが見つかったが、もう手遅れだったそうである。
「肺ガンが見つかるまでは、タバコをようけ吸っていましたから」と、
そのことが、まるでご自分の責任であるかのように、おっしゃった。

それからも今年の3月まで公認会計士の仕事をずっと続けていた。
肺ガンが見つかってから「お父さん、もう仕事をやめて、家でゆっくりしてくだ
さいといくら頼んでも、引き継ぎがあるとか、なんとか言って、仕事をやめずに、
ずっと今年3月まで働いていました」と奥さんは沈んだ声でおっしゃっていた。

いかにも、あいつらしい話だ。

彼とは、もう何年会っていないだろうか。
彼とは同窓会で会うくらいである。
最後にいつ会ったのか。最後に会ったとき、彼がどんな顔をしていたか、
顔にしわがあったか、頭が白くなりかけていたか、薄くなっていたかも、
思い出せない。

彼のことで思い浮かぶのは、学生時代、角帽をかぶり、にやにやっと笑っている顔
だけである。

そういえば、今年、4月の同窓会にも来ていなかったな。
当日の資料を出してみた。欠席になっていた。
欠席者の近況報告、一言メモにも、彼の記載はない。

これが親しい友人なら、同窓会にこなければ、「おーい、どうしたんだ。なにか
あったのか」とすぐ電話していた。
ましてや、近況報告も書いていなければ、なおさらである。

最近の彼とのつきあいはその程度だったのだ。

しかし、思い起こせば、彼とわたしは、学生時代からなにか、相通じるものがあった。

第一に育った家庭環境が似ていた。両方とも、その当時なら当たり前の、
生活に余裕のない家計である。
子どもを大学に行かせるほどの余裕のない家庭である。
彼の家庭のことは、よく知らないが、わたしの場合、公立大学の入学金と初年度
半期分の授業料は、親に出してもらった(高校生のわたしのそんなお金があるは
ずがない)が、その後は、親にお金を出してもらった記憶がない。全部、自分の
アルバイトと奨学金である。
彼の場合もよく似たものだと思う。

それに、性格的にも、お互いおよそエレガンシとか高尚ということに、
まったく無縁の落ち着きにのない、がさつな性質だった。


さらに、大学卒業後の進路も似ているところがある。

大学を卒業して、ともに比較的小さな会社へ就職した。
彼の場合は、大阪市内の名門商業を出て、伝統のある大学の学部を出て、
そんな会社へ入ったことで、おまえの人生を棒に振ったと、親戚のものに、
厳しく叱責されたと、彼がぼやいていたことがあった。
それからまもなく、彼は税理士試験に合格して、税理士になった。

わたしも、名古屋のさらに小さい会社に移って、会社に勤めながら、
彼の後を追うように税理士試験の勉強をした。
自分も税理士試験の勉強をしていることを、何かの機会に、
彼に話したことがあったのだろう。
わたしが試験に合格したとき、受験雑誌に載った合格者名簿から
わたしの名前を見つけて、電話してきたことがあった。
「合格しとるやんけ」とそれだけである。
別に「おめでとう」とも「がんばったな」とも言わなかったが、それが彼なりの
精一杯の祝福の言葉だったのだろう。

それから間もなくだったか、愛知県春日井市内の当時のわたしの家へ来て
泊まっていったことがあった。
彼はわが家へ来るなり、書棚を見て、「商法総則」「商法・会社法」の2冊の本
を見つけ、「こんな本あるやんけ。おまえに要らんな、もろて行くぞ」と言うので
「おまえ、要るなら、持っていけ」とわたしは、2冊の本をかれに渡してやった。
わたしが、将来、公認会計士の試験を受けるなら、必要になるかもしれないと買
ってあった本だった。
このたび、彼が亡くなったことを妻に話したら、「本を2冊貸してあげたわね」と
彼のことを覚えていた。もう三十数年、昔のことである。

彼は、それから、そんなに年数を置かず、公認会計士の試験に合格したので、
彼にやったその本が役に立ってくれたと、わたしは信じている。

彼は、公認会計士となり、そのままずっと職業的会計人としての人生を全うした。
わたしは、その後会社は変わったが、ずっと会社勤めで、中途半端な会計人の
ままだった。

世の中の大勢の流れに竿をさしたがるというとオーバーすぎる表現が、
人とちょっと変わったことをやりたがる点でも共通するところがあった。
今思えば、そんなに大層なことでもないのだが、彼との学生時代の思い出の中に、
「おまえもちょっと変わっているな」と思ったことがあった。
大学3年の専門課程に進んだとき、何曜日かの何時間目が、
当時の大学の看板教授の景気論の授業だった。
わたしは、その授業を受けず、別の「経済学史特講」というマイナー科目を取っていた。
この科目は、はじめのうちこそ、数人の学生がいたが、
そのうち、先生一人に学生はわたし一人だけという授業がずっと続いた。

ある日、その授業が休講になって、図書館へ行くと、彼は、一人で本を読んで
いた。わたしの顔を見るなり、「この本のここのところ、ミスプリントと思うけど、
おまえどう思う」と聞いてくる。
その時間帯で授業がある景気論の先生が書いた「景気変動論」という本である。
当然、景気論の授業のできストとなっていた。
かれは、わざと授業に出ないで、そのテキストを図書館で読んでいるのである。
「おまえ、景気論取ってるんやったら、なんで授業に出んのや」と聞くと、
「いやー」とか頭をかいて、照れ笑いである。
その後どうしたか知らないが、たぶん彼は一回も授業に出ず、試験だけを受けた
のだろうと思う。
きわめて能率の悪い話だが、それが自分の意地だとでも思っていたのだろう。
信条的に、やや左の方へ向いていた彼にしてみれば、景気論という学問分野や
それを講じる教授に反発するところがあったのかもしれない。

また、そのころ大阪市東住吉区にいた新婚時代のわたしの家へ彼が遊びに来たこともあった。
妻が実家へ行っており、家にいなかった。
夕方になって、腹がへったというので、インスタントラーメンを作ってやった。
ちょうど、インスタントラーメンは一個だけ残っていた。
麺を鍋でほぐしたが、スープの入った袋がない。
「おかしいなスープがないぞ」とつぶやくと、それを聞いて
「スープのないのは、君が食え。おれにはスープ入りにしてくれ」とか、彼が言った。
わたしがうっかり、スープの袋まで一緒に鍋へ入れて、麺をほぐしていた。
スープが出てきて一件落着。そのラーメンをうまいうまいと、彼が食べてくれた。


わたしの結婚も早かったわけでないが、彼の結婚はもっと遅かった。
彼はずっと結婚しないのかと思っていたので、30過ぎてから、彼が結婚したと聞いたとき、
ちょっと意外な感じもした。


名古屋と大阪と離れていたこともあり、彼とは二人で、酒を飲むこともなかった。
わたしは、最近でこそ、ほとんど皆勤で同窓会には出席するようになったが、
現役時代で忙しかったときは、いつも出席したわけではない。
彼もあまり、出席率のよい方ではなかったと思う。
だから、両方が出席したときに、顔を合わせると「元気か」と声をかける程度だった。


彼とは、年賀状のやりとりは続いていた。それも、必ず年賀状を出し合うと
いうより、こちらが送っても相手から来ないから、もうやめようと思っていたら、
向こうからきたから、また出すという程度である。

切れそうで切れなくて続いていた年賀状のやりとりが、彼とわたしの間を象徴し
ているように思う。

要は、中途半端な友人関係ということである。

中途半端でも、いざ彼が亡くなったと聞くと、いろいろ思い出すことがある。
中途半端だったから、今まで積極的な心の交流がなかった。
だから、思い残すことがでくる。今さらながら惜別の念がこみ上げてくる。

ここ、最近の何日か、朝夕の散歩の途中で、歩きながら、彼のことを思い出す。
「ええ年して、タバコをパカパカ吸いやがって、タバコが身体に悪いのが、
わかってるやろ」
「最後の最後まで、意地を張りやがって、最後ぐらい奥さんの言うこと素直に聞
け」
「どうしょうもないやつが」
と悪態をつきながらも、涙が出てくる。

これだけの文を書くのに、何日もかかったしまった。
初めて人に読んでもらいたいという文を書いた。

ここまでやっと書いて、夜遅いベランダへ出てみた。

今夜は曇り空だ。昨晩までの満月はない

彼への最後の思いを、ある俳人の名句にもじって託すならば

「冥界は いずこならんや 冬の月」

これでは、格好良すぎるよな。

年賀状は、もう寄こすなよ。


随想 「ある友に 未完の墓碑銘」 平成19年11月28日記