平成19年2月11日

岐阜県恵那市岩村地区、恵那地区

元の岩村町と明智町は、去年10月の市町村合併により
恵那市となった。

岩村、平成10年に、「重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる重伝建)の指定を
受けている。

わたしも、7年前の平成12年5月に、岩村と明智に行っているので
久しぶりの訪問である。


その1 岩村地区


旧岩村町役場の駐車場に車を止めると、だいぶ車が止まっている。

隣りの人に聞くと、名古屋からきたそうで、ここの店がそれぞれ
古いひな祭りのおひなさんを展示しているので、その写真を撮りにきたと
いうことである。

ひな祭りのひなを展示するのは、わたしの地元の瀬戸市の商店街でも
やっているし、近いうちに行こうと思っている足助町でも評判のものである。

そうか、それで、今日はここも、朝早くから、結構人が出ているのかと納得。

岩村本通りへ向かった。

岩村本通り

右側が郵便局

重伝建指定の町並みに合わせて
郵便局も古めかしく造られている。



郵便局の建物に合わせて
設置された郵便ポスト

全国でも珍しい形のポストだそうである。



上記の郵便局は、すこし離れたところにある
昔の郵便局

この建物を見て、旧郵便局ではないかなと
思ったので、向かいの店の人に聞くと
そうですとのことだった。



「まちかど美術館」という店

古い店だと思うが、
元はなにの店だったか。
かなり大きな店である。


おひなさんが、ショーウインドウに
飾られている。



勝川家という古い商家で
「おひなさま押し絵展」をしていたので
中へ入って見学する。



「ふれあいの館」

「観光協会」などの
看板がいくつか並んでいる。

岩村の情報の発信基地かと思う。

中へ入って、職員の女性に話を聞いた。


「ふれあいの館」内部

この建物は、元十六銀行岩村支店だった。
平成初めまで銀行として使用されていたとの
ことで、内部は以前の金庫室まで残っている。

左上の壁面が、欄干がある。
なかなか今では見られない建物である。

この女性は、きれいな方で写真を撮らせていただいたが
出すことができないのが残念である。


今日は、ちょうど、造り酒屋さんの「蔵開き」で、今年の新酒の利き酒ができるので、
たくさんの人出があるとのこと。車の運転する人は、飲めないので、
明智鉄道が増結をして、電車で来られた人が、この建物を前をぞろぞろ
通られるということだった。


この「ふれあいの館」の昔の
銀行時代の看板

十六銀行というのは、昔は
濃明銀行といったらしい。

この看板は歴史的記念物だから
ぜひ表へ出してくださいと
お願いしておいた。

こんないいものがあるのだから
これを利用しない手はないと思うが。


右側の建物は、岐阜信用金庫

信金も、この町並みに合わせて
レトロな感じにできている。



本通りからすこし入ったところに
あった元タバコ屋さん
とっくの昔に廃業した様子。

「タバコ」という字が
右書きになっている看板も
今では超貴重品?




薬局

昔懐かしい古い看板が並んでいるのが
いいですね。



薬局のショーウインドー

古い看板が並んでいる。



今日、蔵開きのイベントで忙しい
造り酒屋さん
「女城主」の銘柄は、中部地方では
割合、名前を聞くお酒だと思う。

ここの蔵で、新酒の利き酒をして
お酒を買う人で、ごった返している。

この写真では写っていないが
右側にお客さんがいる。

電車で来る人以外にも、観光バスで
来ている人もいる。


このお酒の銘柄になっている女城主というのは、織田信長の叔母に当たる人物だそうである。
わたしもよく知らなかったので、下記に解説を付け加えました。

女城主のいわれ(岩村ポータルサイトの記載を引用させてもらいました。記して感謝します)

天正元年、武田信玄に仕えた秋山信友が、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)
織田信長の五男御坊丸を養子として守っていた岩村城を攻撃しました。
岩村城がなかなか陥落しそうもない為、秋山はひそかに計を巡らし、密使を城中に送り、
“結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか”
とひそかに夫人を説得し、夫人も到底最後まで城を守ることが出来ないと悟り、この提案を承諾しました。

家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選んだのです)
 

しかし、信友は信長の叔母と結婚した事を信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまいました。
時に御坊丸は七歳でした。
 これを聞いた信長は大いに怒りましたが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、
そのまま放任せざるをえませんでした。
したし、織田信長は、岩村城を秋山信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、
ひそかに岩村城の奪還の期をうかがっていたのです。
 天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。
信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込みました。
信忠の大軍は数日間激しく攻め立てましたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦した為、容易に攻略はならず、
信忠は戦法を変更し持久戦をとりました。こうして6月から10月に至るまで数ヶ月の時が経ってしまいました。
さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、
ついに岩村城は陥落してしまいました。

 信長は、秋山信友をはじめ修理夫人
(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣において、
逆磔
(さかさはりつけ)にして殺した。

この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、

「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」
と絶叫しつつ果てたという。

 織田信長が本能寺で殺されるのはその七年後のことです。

以上で引用終わり


上記の造り酒屋さんの正面の店の
ショーウインドーに展示された
おひなさん

店の中にも飾られているので
中へ入った。


みごとなおひなさんの展示である。

ここは、空き店となっているので、
元は何屋さんだったのかと聞くと
酒屋だったとのこと。

造り酒屋ではなく、お酒、ビールを売る
酒屋だったそうである。

ほかの場所に移転したのかどうか
分からないが、ここはだいぶ前に
閉店したような感じである。


元酒屋さんの内部
右側に金庫室のような部屋がある。

いかにもこの店の歴史を感じさせる
内部である。

なかなかりっぱなものである。



この後、本通りを見て、次の明智町へいくため、駐車場へ戻る。


なまこ塀

こういう塀が、もうすこし
続けば、いいのだが、
1軒だけというのが、
ちょっと物足りないところである。




その2 明智地区

大正村のいくつかの建物を見てきた。


「日本大正村役場」

この建物は、明治39年建造
昭和32年まで明智町役場として
使用されきた。

平成12年、国・有形登録文化財指定



同上の内部

正面右側に
初代大正村村長だった高峰三枝子の
肖像画がかかっている。



大正村役場の前の「大正村展示館」

「旧町営発電所事業部跡」

「沢田正春の世界」という展示会開催中

沢田正春というのは、大正村のことを
PRに功績のあった画家・文筆家のようである。



大正路地



大正時代の歯科医院跡

現在は使用されていないようである。



「逓信資料館」

明治8年開局の元郵便局局舎
大正時代に改装

右側に現在の郵便局がある。



十六銀行明智支店

銀行支店も、大正ロマンを感じさせる
レンガ風の建物になっている。



大正風のレストラン



このころより、突然、みぞれ混じりの雨になってきたので、
早めに引き上げることにした。

岩村も明智も、ちょっと物足りない訪問となったが
また、日を改めたい。

以上