平成18年12月10日  滋賀県東近江市五個荘町、彦根市

五個荘町、彦根市、さらに時間があれば醒ヶ井の町並みの写真を
撮るため、出かけた。

東海道線の快速を乗り継ぎ、能登川駅に9時35分に着いた。
表へ出ると、ちょうどバスが止まっている。
これは、ラッキー、バスはすぐ出るようである。
運転手さんに、五個荘町へ行きますかと聞くと、
通りますとのこと。
五個荘の観光パンフレットを1枚くれた。

バスに乗って、10分ほどで、「生き生き館前」で降りる。

なお、五個荘町は、市町村合併で、「東近江市」になっている。

「生き生き館」というのが、観光案内センターである。
ここで、新しい観光パンフレットをもらう。
説明してくれた職員さんから、
「今日は、東映がテレビドラマの撮影のため、きていますので
立ち入り禁止になっているところがありますので、
ご了解いただきたい」と注意を受けた。

「重要伝統的建造物群保存地区」になっているところへ
歩き出す。

いかにも、白壁、土蔵のまちらしい
みごとな土蔵である。

ここで、写真を撮る人が多い。



今日の見学一号
「近江商人屋敷 中江準五郎邸」に入る。
入館料は500円であるが、近江商人屋敷5館の
共通入館料は800円なので、それを買った。

この屋敷を作った中井家は、昭和初期に朝鮮、中国に
20店舗ほどの中井百貨店を築いて、「百貨店王」と
呼ばれたそうである。




中井邸の中庭

みごとな庭である。

屋敷の本館、二階、土蔵、庭が公開されている。

土蔵には、郷土玩具・小幡人形など全国各地の
人形が多数展示されている。



中井邸から次の外村宇兵衛邸へ行く道

正面に、ロケ用の車が止まっている。

外村宇兵衛邸が今日のロケ会場なので
その玄関へ行けない。
通用口が、外村邸へ入れてもらった。



外村宇兵衛は、明治時代には全国長者番付けに載るほどの
成功した近江商人の代表者だそうである。


外村邸の内部

この畳は、特別な織り方の畳だそうで
今、作ると一畳50万円くらいするとか。

畳一つがそうだから、ほかの推して知るべし

展示してある茶器、ひな人形そのた
何でも、桁が違う特別のもののようである。

常識では通用しない凝ったものばかりという
ことだろう。



外村邸から外を見ると、ロケ中の役者が見えた。
どこかでみた人だと思ったら、俳優の西田敏行だった。
撮影の合間に台本を見て自分の出番を確認している?

撮影しているテレビドラマは
浅田次郎原作「付神」という時代劇だそうである。
来年6月放送予定


道を挟んで、隣の屋敷が、やはり近江商人屋敷の外村繁邸である。
上記の外村宇兵衛邸の分家筋が、この外村繁邸である。
外村繁は、この家の三男に生まれたが、兄が病没したので、後を継いだ。
やがて弟に家業を託し、自分は小説家として、野間文学賞「筏」などを
出し、作家活動を続けたとのことである。



外村繁邸の内部



用水路の鯉がたくさん泳いでいる。



この白い壁が、弘誓寺(ぐせいじ)という古寺である。
本堂は、宝暦14年(1764年)に完成した国指定重要文化財である。


弘誓寺本堂

豊かな近江商人の寄進もあっただろう
りっぱな本堂である。
滋賀県内では、比叡山の根本中堂に次いで
2番目に大きいとか。



秋のなごりの柿の実一つ





鐘つき堂と紅葉

このお寺でたくさんの写真を撮らせてもらった。

お賽銭の100円は安い?




路地にも、五個荘町らしい雰囲気がある。




あと2個所の近江商人屋敷の見学予定だったが、お寺で時間がとられたので、
バスの時間が近づいたので、後はあきらめ、能登川駅へ戻ることにした。
1時半ごろ能登川駅に着いた。つぎの電車で彦根へ向かう。


彦根で下車して、観光案内所でパンフレットをもらう。

それを見ながら歩き出す。
ちょうど、わたしの行く方向に歩いている男性(わたしより少し年配か)に話しかける。
「おたく、ここは長くお住まいですか」
「いや、2年ほど前にきたばかりですが」
「俳遊館というところへ行きたいんですが」
「わたしも、そちらの方へ行きますから、途中まで一緒しましょう」
ということで、しばし雑談しながら、歩く。
言葉のなまりから関西弁であるので、
「大阪から来られましたか」と聞くと
「ずっと京都におりましてな。息子がこちらで家を買いましてな。
一緒に住むから来いといいますんで、京都の方は片付けて、家内ともども
移ってきました」
「息子はまだ若いのに、家を買いよりましたから、ちょっとは助けたんならんと
いかまへんからな」
「しかし、こっちの冬の寒いには、おうじょうしまっせ。
去年なんか、えらい雪が降りましたがな。息子もこんな雪は初めてやと
びっくりしてました」
そんな話を聞きながら、城の堀端まで来た。わたしとは反対方向に行くそうで
後の道を丁寧に教えてくれた。
お礼を言って、別れた。


彦根駅から10分も歩くと
彦根城の堀に出る。

正面に天守閣が見える。



彦根藩藩士の長屋門

この長屋門について、解説があったが
デジタルカメラで撮るのを忘れたので
詳細は不明


堀端を歩いていて、広い道に出たところで、ちょっとしゃれた建物が
あった。大正風建物の感じがしたので、そこにいた店の人に聞く。
「この建物は古い建物ですか」
「いや、9年ぐらい前に作ったと聞きましたけど」
そうか、そういう風に作ってあるだけなのかと納得。
それにしても、この人の言葉のなまりは、かなりのものである。
「おたくのなまりは、ちょっときついですな。どちらのご出身?」
と聞くと、「青森です」と言う。
「青森から、こちらへ?」と聞くと
「いや、東京におりました。目を悪くしましてな。
東京では働くところがないんですよ。
娘がこちらにおりましてな。こっちへきたらというものですから
こっちへきましたんや」ということである。
そこで、ここの大きいレストランの清掃やら駐車場の整理やら
そんな仕事をしているらしい。
ここは、観光客相手のレストランで、観光バスが2〜3台は
毎日あるという。
「こっちへきたのも、いいかもしれんね」と言って、そのおじさんを
激励して、歩き出した。




夢京橋キャッスルロード

江戸時代風の店の並ぶロード

「白壁と紅殻に煤がけの黒格子、
軒の傾斜をそろえ、歴史的景観を
大切に現代によみがえった城下町」
というのがうたい文句

食事処、伝統の和菓子、お土産などの
店のかずかずが軒を連ねている。

京橋というのは、このすぐ近くの
堀にかかる橋である。


歩いて見かけた建物

こういうしゃれた建物は、元郵便局が
元医院である。

そこで、隣の和菓子屋さんで聞くと
やはり郵便局だったとのこと。

郵便局の新しい建物は、このすぐ右隣に
ある。




俳遊館

元は大正時代の銀行
市が買い取って、彦根の情報を俳句とともに
紹介するしゃれたみちくさ処

投句箱もあり、旅のおもいでに
一句したためていく人もいるとか


ここの管理人さんは、歴史のことなど博学多識
お話の好きな方で、関ヶ原の合戦、彦根城の歴史など
いろいろ教えていただいた。

「国宝になっている城は、彦根、姫路、松本、犬山の
4つです。
そのうち、姫路は、本多15万石、松本は戸田7万石、犬山は成瀬3万5千石
その点、彦根は35万石ですからね。
1石は今のお金でだいたい5万円ですよ。」
こういう数字がすらすら出てくる。
「彦根城を造るとき、佐和山城から移したんでしょう」と聞くと
「そうです。佐和山には2百何十メートル(具体的な数字を言われたが
控えていないので、不明)の城でね。石田三成の居城ですよ。
三成に過ぎたるものといわれましたから、りっぱな城だったので
それをそのまま使ってもよかったのでしょうが、関ヶ原のあと
佐和山城は徹底的に壊して何も残らないようにして、そこにあったものを
全部、持ってきて、井伊が彦根城を造りました。
佐和山城以外にも、浅井の小谷城、長浜城、秀次のいた八幡城、
それから京極の城の5つの城から寄せ集めて彦根城を造ったんですよ」
「わたしは、大阪生まれ育ちで、関ヶ原の合戦は聞くのがつらいんです」と
言うと
「関ヶ原のとき、京極の城攻めに、西軍が1万の兵を送っていたんですよ。
あれがなければ、関ヶ原もどうなっていたか、わかりませんよ」という話。
この話は、知らなかったが、
「どちらにしても、三成の器量では、家康に太刀打ちでけんでしょう」と言うと
「そうですね。秀吉恩顧の大名を何人も東軍に追いやりましたからね」と
すぐ答えが返ってくる。
「しかし、よくこの彦根城が、明治維新でよく壊されずに残りましたな」というと
「それはね、、明治天皇の保存命令が、明治10年1何月何日(具体的な数字を
言われたが控えていないので不明)に出たもので、残りました。
明治天皇が、こちらへ来られたとき、城をみとられますよ。
そのあと、大久保利通の提言からそのまま保存令となったようです。」

とにかく何を聞いても、すっと答えが返ってくる。
元学校の先生かと思ったが、繊維関係の会社に
お勤めだったそうである。

最後に、彦根の古い町並み、建物のあるところを教えてもらって
ちょうど、次の来館者があったところで、出てきた。



旧下魚屋町の古い建物

看板には
「レート白粉 特約店 」と
右側から書いてある。

レート白粉とは、何かなと思っていたら
Googleで検索すると、いくつかヒットした。

「、「レート」とは、明治11年平尾賛平商店として創業、
昭和24年社名変更しレートとなった化粧品メーカーだ。
レート化粧品は「東のレート、西のクラブ」と言われる
2大トップメーカーだったらしい。」だそうです。
白粉というのは、「おしろい」のこと。




同じく、旧下魚屋町にある古い家



同じく旧下魚屋町にある商家の広田家

説明板によれば、このあたりの下魚屋町は
文字通り魚屋が多かったところで、
この広田家も「納屋七」と呼ばれる魚屋だった。
この建物は、安政七年(1778年)の建造とのことである。



旧上魚屋町に残る古い民家

元は、何か商売をしておられたか




旧上魚屋町にある医院

いかにも古そうなお医者さんである。



だいぶ遅くなったので、そろそろ彦根駅へ向かう。
彦根市の古い商店街はどうなっているか、関心のひとつが、商店街である。


銀座通り商店街

途中通ってきた中央通り商店街も、この銀座通り商店街も
2〜3割の店は、シャッターを下ろしているが、
結構活気がある。地方都市の商店街としては
がんばっていると思った。
今まで見てきた愛知県内地方都市の商店街の
衰退ぶりを考えれば、ここは元気な方である。




彦根駅に午後4時20分に着いた。初めの予定では、時間があれば、醒ヶ井へ寄りたかったが、
意外と時間がかかったのと、今日はたくさん歩いて疲れたので、あきらめて名古屋へ向かう。

快速を乗り継ぎ、名古屋へ。
7時半ごろ帰宅。

以上