平成18年11月5日  愛知県半田市を訪ねて

近くの古い市、街めぐりの4番目として、知多半島の半田市を訪ねた。
事前に、「愛知の歴史探訪」を本の半田市の部分を見て、見るべきポイントを
整理しておいた。


名鉄・知多半田駅にちょうど10時に降りて、目の前の様子にびっくり。
再開発の真っ最中
大きなビルが建ち、空き地が目立つ。

これでは、駅前の古い商店街なんかは、なさそうである。

駅員さんに、観光の案内マップがありますかと聞きと
すぐ、「半田観光ガイド」というものを出してくれた。



駅前の大きな新しいビルに、観光案内があるらしい。
この渡り廊下は長そうで、100メートルくらいありそうである。
そんなところまで、行く人があるのかなという疑問を感じた。

今日は、とんでもないところへきたかと嫌な予感がした。



駅前は、再開発の関係か、ごたごたした感じがするが、
ガイドマップを見ながら、第一目標の中埜家を目指して歩き出す。


旧中埜家住宅 明治44年建造 国・重要文化財

半田を代表する実業家・中埜半六の別邸
明治の洋風建築を当時のままで伝える。

現在は、紅茶専門店になっている。



さらに北へ進み、次の交差点を右折して、1本目をまた、北へ。
細い道が続く。


常夜灯

この細い道を行くと、紺屋海道に出るはずである。


紺屋海道

半田市堀崎町界隈にある海道。
船の帆を染めた染物屋が数軒あったことから、紺屋の名前が付いた。
江戸時代、千石船の出入りする大野港と下半田を結ぶ交通の要所だった。


紺屋海道を手押し車を押してくるおばさん

このおばさんに話しかけて、話を聞いた。
わたしが瀬戸から来たというと、おばさんは名鉄・瀬戸線の
清水の近くが実家だっそうで、懐かしそうだった。

この紺屋海道のこと、これから行く赤煉瓦のことを教えてもらった。

ここから西の方に本町というところがあるが、そこには古い商店街が
ありますかと聞くと、「そこは、昔の本通りだったけれど、寂れてしまって
ほとんど店は閉まっているということだった。

おばさんは、足の靱帯を痛めて、不自由しているそうである。
杖をついていたが、この手押し車の方が調子がいいとか。
どこかへ買い物に行くところらしい。
「おばさん、元気でね」といって、また歩き出す。


半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場) 
平成16年登録有形文化財・建造物指定

明治31年建造 妻木頼黄(つまきよりたか)設計
明治31年、丸三麦酒のビール工場として、「カブトビール」を
全国に送り出さした。
昭和19年 太平洋戦争で、中島飛行場機の衣糧倉庫となる。
平成6年まで、食品会社の工場して使われていた。
平成8年、半田市が買い取り、管理。
年に数回は、建物内部の一般公開をおこなっている。



同上の西側

この北側の壁面には、太平洋戦争中のアメリカ軍の
機銃掃射跡が、生々しく残っているとか。

(そちらへは、立ち入りができないので、写真は撮れなかった)




また、紺屋海道に戻って、中心部へ向かう。

正面の家は、大きな土蔵を持った立派な屋敷である。

こういう家が、海道沿いに残っている。



屋根が三層になっていて、面白い家だと思って、写真を撮った。



新美眼科医院旧館 大正4年

歩いていて、大正風の洋館らしいのが、見えたので
そちらへ向かったら、やはり事前にチェックしておいた
新美眼科医院だった。

この左側に、立派な近代的な医院がある。
この建物の右側が本宅のような大きな和風の建物がある。

このあたりの名士だったのだろう。

この医院の前の幼稚園が、バザーを開催中で
人、車がいっぱい。
写真は、うまく撮れなかった。
平日、この眼科が営業中だと、柵の中へ入って、
この旧館も大きく写真が撮れるかも知れない。


新美南吉という童話作家も、このあたりの出身で、記念館も近くにあるらしい。
新美というのは、このあたりに多い姓か。

JR武豊線の線路のすぐそばに、
また立派な家があった。
丹羽という表札が出ていたと思う。
大きな土蔵をもって、なにか由緒のある家の
ようである。




半田市本町

大半の店が、閉じているようである。

地方都市の小売業の共通の姿かもしれない。


中埜酒造「国盛・酒の文化館」

半田市は、中埜酒造、中埜酢店(ミツカン酢)を外しては
語れない。あるいは、半田は、中埜そのものといってもいいほどの
存在である。
その一つの施設、「酒の文化館」
入場無料

お酒にまつわる文化の見学、利き酒コーナー、売店がある。
観光客が、続々詰めかける。

観光バス大きな駐車場もあり、観光バスのコースになっているようである。

前夜か今夜は日間賀島へ泊まって、ここを訪れるというのが
定番の観光コースのようである。


わたしは、なかへ入らず、今どき利き酒をやっていたら、後が困る。歩けない。

正面の建物の裏が、半田運河である。

そこの堤に座って、この建物を運河側から、写真を撮っていると
向こうから、女性が歩いてきた。
「こんにちは、散歩ですか」と、話しかける。
赤い派手なダウンジャケットのようなものを着ているが、わたしより少し年配かと
思われるおばさんは、話し好きと見えて、話をしてくれた。
この半田での中埜家のすごいこと、ここらあたり一面は中埜の土地である。
本宅は、すばらしい建物である。中埜酒造、中埜酢店の本社ビルが近くに
あるが、新しい立派なビルである。兄弟3人がそれぞれの会社をやっているとか。

中埜家以外では、山田というところが、やはり大地主である。こちらは元紡績工場を
やっていた。今は廃業したが、大きなスーパーに土地を貸している、などなど。

これから行く小栗家住宅の場所を聞いたら、すぐそこだと行く道を教えてくれた。
もう昼だから、あそこのラーメン屋のラーメンがおいしいとか。

わたし「おばさん、子どもさん、どうしてるの」
おばさん「子どもはおらん」
わたし「へえ、子どもがおらんのは、寂しいね。じゃ、だんなさんと二人ぐらしか」
(「おばさんの年からすれば、だんなさんはもう亡くなっているか」と気づいて
余計なことを聞いたかと、思ったが、もう遅い)
おばさん「だんなもおらん」
わたし「あっそう。だんなさんはもう亡くなったかね」
おばさん「だんなは元々おらん。わたしは結婚せんかったからね。いかず後家よ」
わたし「そうかね。いい男はおらんかったかな。じゃ、定年までずっと会社勤めだった?」
おばさん「いや。会社勤めはしたことがない。自分でここで水商売をずっとしとった」
わたし「へえ。いまでもしてるんかね」
おばさん「身体の調子が悪くなってやめた。半田は昔、にぎやかでね、景気がよかったし、
店も忙しかったよ。」
おばさんに「わたしはいくつに見える」と聞いたので、多少はサービスのつもりもあって、
「ぼくと同じくらいかな。昭和12年の丑年だけど」と答えると、
おばさんは「全然、若いわ。わたしは昭和一桁よ。8年よ」ということ。
すると、73歳ということか。

そんな話をしていたが、
最近は、病院通いが多いそうで、今ひとつ元気がないようだった。

「おばさん、何か、好きなことをやって、元気出したらいいのと違うの、
何か趣味ないの」と聞くと、「昔は三味線をやっていたが、今はやっていないとの
こと」
「三味線か。三味線って難しいでしょう」というと、「毎日少しでも引いとった」とか。

そこへ、サイクリング自転車に乗った30代中ごろの男が通りかかった。
「おーい、どこからきたんや」と聞くと、「岐阜の関です」という。
「えっ関からここまで自転車でか」と問うと、「いや、車に自転車積んできて
適当なところに車を止めて、後、自転車であたりを周るんです」という。
「へえ、今日はどこかへ行ってきた?」と聞く。
「先ほど、常滑へ行ってきました。常滑はいいところですね」という。
(そうか、常滑は、いいところか。来週はやっぱり常滑かと思った)
「ところでな、関って、古い町並みが残ってる?」と聞くと
「古い町並みは、関にはありませんよ、隣の美濃市へいかんと」という。
「関にね、古い商店街は残ってる?」と聞くと
「古い商店街もないですね。昭和の面影を残すものは、ないですね」とのこと。
「そうか、ちょっとがっかりやな」とわたしがいうと
横にいたおばさん「関って、関の五本松でしょう」という。
「関の五本松」とは、いかにも三味線をやっていたおばさんらしいが、
「関の五本松は、違うぜ。あれはもっと遠いところや。山陰やなかったかな」とわたし。
もちろん、岐阜・関の男性は、「関の五本松」といっても知るわけはない。

「じゃ」と言って、サイクリングの男性は、かっこよく走り出した。

おばさん、その後、半田の秋祭りのことを、話してくれた。
10月の第一土日の半田秋祭りは、山車が32台揃って、とても絢爛豪華とか。
写真を撮る人もいっぱい来る。
おばさんのお客さんで写真の上手な人がいて、この山車のそろい踏みの写真を
くれたので、店に飾っていたそうで、店じまいのとき、欲しいという人がいて、
あげたとか。

「おばさん、記念に写真を1枚撮させて」というと、おばさん、それはお断りとばかりに
立ち上がって、向こうへ足早に歩き出す。
その後ろ姿に、「おばさん、元気でな」と大きい声で、声をかけると同時に、
デジタルカメラのズームをいっぱい伸ばして、シャッターを押した。

今まで会ったこともなく、またふたたびは会うこともない
行きずりの人と、それでも20分くらいはしゃべっていたか。
おばさんの人生の一端も聞かせてもらった。

これも、わが人生の糧となるべし。


おばさん、今日はありがとう!
一人でも、元気を出して、がんばって、生きていきなよ!
きっと、いいこともあるからね!」

この写真に、わたしのそんな思いを伝えたい。



中埜酒造の建物を、半田運河の反対側から撮した。




さきほどの「国盛・酒の文化館」のすぐ南隣にある
朽ち果てかけた土蔵

わたし流にいえば、わたしの「今日1枚」か




小栗家住宅 登録有形文化財・建造物指定

万三商店という屋号で、江戸時代以来、醸造業、肥料などを
扱う、この地方屈指の豪商だった。

「愛知の歴史探訪」という本には、この住宅は非公開と
書いてあるが、今年4月から1階の入口部分だけ
半田市が借りて、半田市観光協会になっている。



小栗家住宅の内部

昔の会社の事務所として使われていた部分を
市が借りて、観光協会として使っている。

いかにも、昔の会社の事務所って、こんな風だったね。

事務所の奥は、個人の生活場となっているので、
立ち入り禁止となっている。

観光協会の人は、愛想のいい人で、感じがよかった。




左も右も向かいも、このあたり一帯全部、
中埜酢(ミツカン酢)の工場、倉庫である。



博物館「酢の里」
入場無料、案内嬢が案内してくれる。

ここも観光バスの定番のコース。
わたしは、入りませんでしたが、
見学すると、酢を飲ませてくれるのかもしれない。
それを「利き酢」というのか、どうか。




上記の内部

なかなか立派なものです。

建築は明治時代ではないかという話でした。

案内板によれば、今から200年くらい前に、
初代中野又左右衛門の考案によって、この地で
酒粕を原料とする酢が造られたそうである。

この博物館は、酢の歴史、情報を集めた全国で唯一の
お酢の博物館とのこと。

初めのころは、中野といっていたらしい。途中で中埜と
改姓したようである。


上記、酢の博物館の隣にあるミツカン酢の本社ビル?



だいたい見るところはみたように思うし、お腹もすいたので、
名鉄の駅まで戻ることにした。

途中、JRの半田駅の横を通る。

名鉄の駅への道を聞いた女性が、JR駅のレンガの建物が
だいぶ古いものらしいと教えてくれたので、JR半田駅へ寄った。



この赤レンガが、だいぶ古そうである。
駅員さんに、赤レンガはいつごろのものですかと
聞くと、駅員さん、「わたしが赴任したときから
ありますが、よく知りません」とのこと。
変電室に出もなっているのかと思ったが
単なる倉庫ですとのこと。

駅員さんに断って、改札口の中へ入れももらって
駅の写真をを撮る。



跨線橋に上がる階段

なかなかしっかりした階段である。




跨線橋

駅長さんの案内板あり
この駅の開駅は明治15年(1886年)だそうで、今から120年前か。

跨線橋は、明治43年完成、JRでは最古のものとある。

今日は、いい写真が撮れたよ。



JR半田駅ホーム

もうすぐ電車が来るのか、お客が数人待っている。

こんな感じのホームも少なくなりつつあるように思う。
いかにものんびりした田舎の駅という感じがいいです。

喫煙コーナーなんか、ある駅も少なくなりつつある?




今日は、最後の大きな収穫があったような気がする。
帰りの名鉄のキップも買ってなかったら、JRにそのまま乗ったのだが、
駅員さんにお礼を言って、名鉄の知多半田駅に向かった。

1時45分、知多半田駅着


以上

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