平成18年10月15 岐阜県羽島市竹鼻町および笠松町
9時45分 名鉄竹鼻線竹鼻駅に到着
駅員さんに、この町のガイドマップがありませんかと聞くと、探して、こういうものがありますと
「美濃竹鼻ふれあいマップ」というのを、出してくれた。
それを1枚いただいて、歩き出す。
竹鼻へは2回か3回来たことがあるので、多少は分かっている。
地図にしたがって、歩くことにする。
これから行こうとする街の入口にあるふとん屋さん
だいぶ古い店のようだが、閉店したようにも見える
かなり大きな店だったようである。
逆川にかかる昭和橋
昭和4年3月とある。
すぐ上の看板に6店の名前があるが、さきほどのふとん屋さんの名前もある。
ほかの店も閉店している店があった。
この町の状態を表しているように思える。
この川「逆川」のことを、後で会った女性の方が、
川の水が普通、上から下へ流れるが、この川は
逆に流れるので「ぎゃくがわ」というと言われたが、
ちょっと疑問もある。
「さかいがわ」という人もいたので、そちらの方が
正解のように思う。
この町は、「木曽川」と「長良川」の二つの川をつなぐ「逆川」を
利用した商家の街として発展してきたと、「ふれあいマップ」に
書いてある。
常夜灯
街の真ん中で、道の上、しかも民家の玄関の前にあるので
びっくりした。
なぜ、こんなところに常夜灯があるのか
「ふれあいマップ」では、「川町灯台」と出ている。
たぶん、「逆川」が、このあたりまで入り込んでいて、
川湊ととなっていたのだと思う。
このあたりは、土手か堤防の上になっていたのでないか
川が埋め立てられ、街の真ん中になってしまったのだと
想像する。
近くにいた人に聞くと、わたしの想像が当たっていたようである。
この近くまで、川だったということである。
突然、空き地があった。
ロープを引いて、月極駐車場となっているようである。
「ふれあいマップ」を見ると、古い土蔵があったところである。
明治時代から、竹鼻銀行の蔵で、機屋の取引場所として
反物が山積みされていたと解説があった。
そこが、比較的最近になって、取り壊されたようである。
やがて、今まで歩いてきた南北に通っている道と交差する道(東西に走る道)に出た。先ほどの逆川の川湊に連なっている道である。
このあたりでは、一番古い街道で、勝手のメインストリートだそうである。
以前来たときは、元の映画館は取り壊されていたが、ミニ資料館があった。しかし、それもなくなって、空き地になっていた。
かってのメインストリートを行く。
両側の店舗は、ほとんど店が、休業のようである。
ここが、今このあたりで、一番にぎやかな商店街
竹鼻銀座という看板が見える。
さすが、この通りでは、シャッターを下ろしている店はなさそうである。
小見山邸
格子戸のある家並みの中で、特に風格のある家構え
さきほどの古い方の街道に面して建っている。
菱田邸
さきほどの小見山邸から、にぎやかな商店街から、1本入った通りを、北へすこし行ったところにある。
格子戸のある落ち着いた家並みの中で、間口の広い大きな構えが目立つ。
竹鼻別院
昔は御坊専福寺
境内には、県文化財の藤が見事である。
樹齢300年以上の古木で、優雅な長い花序をつける。
薩摩工事義没者(薩摩藩が幕府から木曽川の改修工事を命じられ、
その工事に従事して亡くなった薩摩藩士)の墓がある。
この工事が、幕末の薩摩藩に膨大な経済的負担と人的損害をもたらしたそうである。
この工事については、昔読んだ杉本苑子「弧愁の岸」に詳しい。
さきほどの商店街に戻り、北へ向かって歩く。
千代菊酒造の小売店部(工場、本社はこの裏にある。)
今日は、日曜日で休み。
この酒造メーカーには、知人がいて、たしか3回、工場見学にきて、新酒を
ごちそうになったことがある。
そのとき、酒粕を買って帰った。ここの酒粕は、さすが、濃くておいしいかった。
店が開いていたら、酒粕を買って帰ろうと思ったが、残念だった。
千代菊酒造は、元文3年(1738年)創業
先代の社長さんが、相撲の千代の山の「たにまち」だったそうである。
千代の名前は、ここの千代菊からとったとか。
また、北向きから西向き道を変えて、細い道へはいる。
元映画館跡の「羽島市歴史民俗資料館・映画資料館」に入るつもりである。
こんな看板があった。
美濃羽島銘菓とある。
大正ロマン風の女性が描かれている。
「羽島市歴史民俗資料館・映画資料館」は、今日は閉館である。
その広場で車を洗っている青年に、資料館は休みだねと聞くと、第3日曜日は休みとのことだった。
この資料館は、元映画館があったところ。ということは、昔この町には、映画館が2軒あったのか。
それだけ、この町もにぎやかだったのだろう。
今でも、ときどき映画を上映するようで、11月の予定が張り出されていた。
11月11日(土)に午前と午後の2回。出し物は、「宮本武蔵 一乗寺の決斗」・主演中村錦之介
隣の床屋も店が閉まっているので、この店は廃業したのと、聞くと、床屋も第3日曜日は休みですとのこと。
ということは、岐阜県では、床屋の定休は月曜日か。それで月1回か2回の連休に日曜日に休むようである。
愛知県の床屋の火曜日定休は、全国的にみてマイナーであるということは、いつも行く床屋で聞いたことがある。
映画資料館の前の建物を見ていると、正面の壁に描かれた画が
どこかで見たような感じがする。
銭湯の壁画だと思って、また青年に、「ここって、元銭湯だった?」と聞く。
「そうです」という返事。「やっぱりな」
よく見ると、天井に、大きな風呂屋さん独特の扇風機が、残っている。
クーラーが設置される前は、この扇風機で、風を送っていたんだな。
(クーラーがついてからでも、使われていたのだろう)
さて、また、商店街の道に戻り、駅方面へ向かう。車がよく通る広い道を越えたところから、この通りの雰囲気は
がらりと変わって、急に寂れてくる。
山五酒造とかかれた造り酒屋さん
今日は休みのようであるが、カーテンのすき間からのぞいてみると
商品が並んでいる。もちろん今も営業中のようである。
「四季の友」と書いてあるので、それがここの銘柄のようである。
さきほどの酒屋さんからすこし行くと、岐阜銀行の支店があった。
よく見ると、キャッシュコーナーだけ残し、支店は閉店したようである。
元銀行の袖看板がNPO法人の看板になっている。
いずれにせよ、銀行があったくらいだから、ここがかっての目抜き通りだったことには間違いない。
しかし、今はかなりの店が、休業のようにみえる。ただ単に日曜日だから閉まっているのではなく
商売そのものを止めてしまっているところが多いようだった。
由緒ある呉服屋さんのようであるが、閉店している。
右側は、理髪店
左の建物は、ちょっとしゃれた建物だが、元郵便局のような感じもするが、
近くの人に聞くと、元医院だったそうである。
ここの自転車屋さんの店先で、ご主人がタイヤの修理を熱心にやっておられた。
ちょっと、話を聞く。
どこから来たかと言われたので、愛知県瀬戸から来たというと、自分の姉も
瀬戸へ嫁いでいるとのことだった。そんなことから、多少親しみを感じたのか
いろいろ雑談する。
リヤカーのタイヤ修理だそうで、これはシロウトでは難しいとか、いいながら
器用にどんどん進めていく。
わたしは、この道の感じがいいので、このまま歩いてみようかという気がしてきたので、
この街道を、どんどん北へ行くとどこへ行くと聞くと、5キロくらい歩くと、墨俣へ出るとのこと。
墨俣は、去年の年末、美濃路を歩いたとき、通った記憶がある。あそこまで行っても
公共の交通機関があったかな。岐阜行きのバスがあったような気もするが。
この通りも昔はにぎやかだったそうで、子供ころは、この前はバスが通っていたとのこと。
この商売も跡継ぎがいないので、どんどん廃業していくとか。
自分ももうじき60歳になるが、竹鼻の自転車屋では、一番若いとか。
この道は、こんな感じでずっと続いているんですかと聞くと、いやもうちょっと行ったら、普通の道になるということなので、
この道を歩くのはやめにして、竹鼻駅に戻ることにした。
12時10分、竹鼻駅着 2時間半ほど、写真を撮りながら、地元の人に話を聞きながら、歩いてきた。
名鉄竹鼻線で、笠松へ戻る途中で、西笠松で下車する。
元、この西笠松駅が「笠松」駅だったとか。昔の町並みは、こちらに少しは残っているのではないかと
思って、すこし歩いてみることにした。笠松の街をあるきながら、本線の笠松駅まで、1駅分だけ歩くことにした。
笠松の町並み
今日は、日曜日だが、クラブ活動?女子中学生がそろって自転車で行く。
鮎鮨街道・笠松問屋跡
将軍に献上するため、6月から9月まで、月6回、鮎鮨を、江戸城まで運んだ。
岐阜のお鮨元から、加納問屋を経て、この笠松問屋が受け継ぎ、一宮問屋まで
送ったそうである。
街道に面した古そうな仏具屋さん
この家も、昔は盛大に商売をしておられたと見える。
お酒の自販機が並んでいるところをみると
元は酒屋さんか。
笠松駅着、12時55分
この後、岐阜へ出て、岐阜の古い町並みを見てくる予定だったが、今日は疲れたので、帰ることにした。
岐阜は、また別の日に行きたい。
以上