平成18年9月23日 愛知県津島市を訪ねて

愛知県、岐阜県、三重県の町で、戦前からあるから町で、太平洋戦争で焼けてないところで、
古い街並みが残っていそうなところを、順番に訪ねていきたいと思っている。
津島は、その第一号というわけである。

津島を選んだのは、たいした理由があるわけではない。
最近、この津島市内にある信用金庫の建物が、文化庁の登録有形文化財の指定を
受けたということを、新聞でみたので、その写真を撮るのが、主な目的である。

それに、津島なら古い街並みも残っているかもしれないという期待もある。

津島へは、名鉄バスセンターから、名鉄バスの路線バスがある。
わたしは、名鉄バスの「とくとくキップ」を持っているので、1乗車100円で乗れる。
これも津島行きの理由である。


名鉄バスセンターへ久しぶりに行って、ここがきれいにリニューアルされているのに
ちょっと驚いた。

岐阜県の関市や美濃市へも、ここから名鉄バスが出ているのだ。
これは、都市間高速バスといって、高速道路を使うので、「とくとくキップ」の対象外のようである。
一度、この件を確認したいと思って、バスセンターへ電話しているのだが、
なかなか電話がつながらない。

津島まで1時間ほどで着いた。途中、広い国道を走っていたが、どこかから、狭い道に入った。
片側1車線の道である。バスがすれ違うのに、困るような道である。
たぶん、これが昔の佐屋路(旧東海道の脇往還で名古屋・宮から佐屋まで続いていた道)では
ないかと思った。
佐屋路は、名古屋・宮から桑名までの「七里の渡し」の船旅を嫌がった旅人が通った道だそうである。
佐屋からは船に乗って木曽川を渡ったのだが、「七里の渡し」の海上よりはかなり短い。


名鉄バスの津島終点は、名鉄電車の津島駅前である。
10時すぎに着いた。早速歩き出す。

早速、天王通りという目抜き通りを、津島神社の方へ、西へ向かって歩き出す。


このメインストリートに面した店も、休業中、廃業の店が、かなり目につく。
角のうどん屋、そのとなりが米穀店、そのとなりも何かの店だが、
営業しているようには見えない。



大きな空き地があった。前には、何があったのだろう。

さっそく、空き地の前の時計店に入って、店の人に聞く。

ここには、第一勧業銀行があったということである。
支店の統合で、津島支店が廃店になったらしい。
津島には、そのほか住友銀行など、都市銀行がいくつかあったが、現在残ってい
るのは、津島駅前にある三菱東京UFJだけそうである。
津島にそれだけ銀行の支店があったということは、かってこの町がずいぶん繁栄
していたということの証明であろう。
都市銀行がかってたくさんあったが、今はほとんど亡いという点では、
数年前に訪れた北海道の小樽を思い出した。

しかし、いずれにしても、この広い土地の後の活用が、この街では、なかなか
頭の痛い問題ではないかという気がした。



道行く人に、旧津島信用金庫本店の場所を聞くと、「最近新聞に出ていたね」と言われた。
この天王通りから、すこし右(北)へ入ったところにあるということである。

しかし、このあたりの最も重要な金融機関の、しかも本店が、通りに面してなくて、
たとえちょっとでも奥へ入ったところにあるとは、おかしいなと疑問を感じつつ、そちらへ向かう。

言われたとおり、道を曲がったとたん、信金らしい建物が目につく。

それにしても、この道は、わたしが今まであちこちで見た旧街道ではないか。

れが、佐屋路ではないかと直感的に思う。
東海道、中山道で見た旧街道そのものである。


これが、登録有形文化財(建造物)の旧津島信用金庫本店である。
現在は、津島信金は他行と合併して、本店はよそへ移った。

この建物については、あるホームページに下記のような記事をが
出ていた。

経緯が詳しく出ているので、非常に参考になった。

このサイトの主宰者に感謝して、引用させてもらった。



この旧津島信用金庫本店の建物は、1929年に名古屋銀行津島支店として開店し、
東海銀行津島支店を経て、1968年に津島信用金庫本店社屋となり、店舗移転後は
倉庫として使われ、現在は津島信用金庫と合併した「いちい信用金庫」が所有している。
専門家によると、昭和初期の地方都市に建てられた銀行建築の典型で、文化財としても
価値は高いという。

毛織物隆盛期に都市銀行も林立した津島の経済的繁栄を物語る上でも貴重な文化遺産である。

 しかし現在、この建物の存続が危ぶまれている。
いちい信用金庫が、老朽化して使い途のない建物の処分を検討しているからである。

しかし、建物の公共的価値を認識した信用金庫が津島市に相談を持ちかけ、現在市と
信用金庫の間で話し合いが持たれている。
財政事情が厳しい市としては、市民に保存の気運が高まり、活用にあたっての主体的な関わりがないことには、
建物を取得することはできないという考えを持っている。

 そのような状況の中、貴重な町並みが失われることを危惧した市民が動きはじめた。
2003年11月に本町1丁目の住民10人が、町並みを守るための組織「トノ割会」を発足させたのだ。
自分達にできることからということで、竹でつくったプランターに花を植え、町内の各家の前に飾ったり、
信用金庫建物の前に丸太で作ったベンチを置いて休憩スペースをつくったりしている。
今後は、イベント開催などにより、町並みを多くの人に知ってもらう活動をしていきたいと意気込んでいる。」


以上のような経過をたどって、今年、文化庁の登録有形文化財の指定を受けたわけである。

市民の運動の成果に敬意を表したい。



旧津島信金の建物の写真を撮ってから、
となりの呉服屋さんに入って、そこの奥さんに話を聞く。

やはりこの前の道が、旧佐屋路であって、
この道が、かってのメインストリートだったということである。

だから、津島信用金庫の本店が、現在のメインストリートの天王通りに
面してなくても、なんら不思議でないのだ。
建造された当時のメインストリートに面していたのだから。

この津島には、旅館もたくさんあって、にぎやかだったということだった。



津島の旧佐屋路に面した町並み

こういう古そうな建物が、あちこちにある。




呉服屋さんを出て、旧街道を名古屋方面へ歩いていく。

すぐ横に糀屋さんがある。

安政年間創業ということで、このあたりでは有名な店だそうである。

店の前にある井戸も、由緒があるらしく、市の記念物かの指定を受けていた。



夢中に写真を撮りながら、名古屋方面のはずれまで行って、元の道を戻ってきて、
街道を反対側へ進む。


津島の町並み



呉服屋さん
ずいぶん古そうな店で、土蔵がある。
表におられたご主人に、すこし話を聞いた。

太平洋戦争の終戦が、もう2週間くらい遅れていたら
この店の建物が取り壊しになっていたそうである。

アメリカの飛行機による空襲で、市街地の延焼を
防止するため、戦況も悪化した戦争末期、
主要道路沿いの建物の取り壊しが行われていた。

わたしも大阪で、そういう取り壊された家を見たことがあった。

津島のようなところでも、そういうことになっていたとは
ちょっと驚いた。


メーンの通りからはずれた通りに入っていくと
お茶屋さんがあった。

ご商売の状況はどうなんでしょうか



お茶屋さんの向にある洋服店

ずいぶんとうが立った店であるが、
中で、ご主人が、上からコードをぶら下げたアイロンで
仕事をしておられた。




通りからややはずれたところにも、こんな古い家があった。
元は、なにか商売をされていたんだと思う。



造り酒屋さん

もちろん、今も現業中である。
裏に大きな土蔵がある。


津島神社手前に、堀田家住宅という国の重要文化財に指定されている大きな建物
があった。江戸時代の代表的な商家である。津島市が寄贈を受け、市の所有、
管理になっている。

入館可、有料



津島神社参道になっている商店街を歩く。
やはり衰退を感じされる商店街である。
閉まっている店も多い。




天王川公園

春秋の天王川まつりのときは、ここはたいへんな賑わいだそうである。



天王川公園で休憩して、津島市の指定文化財になっている、もう一軒の古い旧家の写真を撮った。

2時間半ほど、夢中になって歩き回って、写真を撮ったが、おなかもすいたし、
疲れてきたので、駅へ向かった。

津島という町を歩いて感じたのは、とにかく店が多いということである。
もちろん、もう商売をしていないところも多いが、街道筋、商店街は言うに及ばず、
そんなところから外れたところにも、商店がある。
かって、これらの店が、飯を食っていけるだけの商売ができていたということからして、
かってのこの津島という町の繁栄ぶりがしのばれるというものである。

それと、津島は、お寺の多いところだ。この町に、数十のお寺がある。ちょうど、
今日はお彼岸だったせいもあるもしれないが、町中、線香のにおいがしている
ように思った。


津島へは、近いうちにもう一度行ってみたいと思っている。

以上



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