藤原惟成

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父は右少弁藤原雅材。母は摂津守藤原中正の女。
天暦7(953)年〜永祚元(989)年。
式部丞、左少弁などを経て永観2(984)年正五位下、五位蔵人となる。花山天皇に信任を受け五位の摂政と呼ばれるほど権勢をふるったが、2年後に天皇が半ば謀略により元慶寺にて出家したため、後を追って出家。出家後は長楽寺周辺に居住した。
 家集に『惟成集』がある。

ここに着目!

五位の摂政の誕生

永観2年八月、花山天皇が即位した。だが不幸なことに、母の懐子はすでに亡く、外祖父伊尹もこの世の人ではなかった。ときの廟堂の顔ぶれは、関白太政大臣に頼忠、左大臣に源雅信、右大臣に兼家。穏和な頼忠や源雅信に対して、権勢欲は人一倍という兼家は、外孫である敦仁親王(一条天皇)を早く帝位に就けたくて仕方がない。花山天皇などは邪魔なだけの存在である。
 そんな兼家を見ていた子の道兼が、花山天皇に言葉巧みに出家を持ちかけた。寛和2年6月22日の夜、内裏を抜け出した天皇は元慶寺において落飾、ところが道兼は自分も出家すると見せかけて内裏に舞い戻ってしまった。ようやく天皇を捜し当てた叔父の藤原義懐や惟成は、もはやこれまで、と二人ともすぐさま出家してしまった……という話は有名。
 結局、兼家の顔色を窺っていた公卿たちは、誰一人花山天皇を押し立てて積極的に政治をしようという意志を持っていなかった。そのために、蔵人頭(10月から権中納言)になったばかりの義懐(懐子の弟)が孤軍奮闘する羽目になる。義懐はまだ28歳。やる気のない大臣や大納言などの上司を相手に政をするには、役不足であった。義懐自身、そのことを自覚していたことだろう。だが、誰かがやらなくては花山朝は立ちゆかなくなる。
 義懐は左少弁で五位蔵人であった惟成に目を付ける。惟成は藤原北家とは言え、すでに傍流になっていた魚名流の出であった。義懐より四歳年上であった惟成は、大学寮の文章生だったから法律などにも詳しかったであろうし、義懐のよき相談相手になりうる条件を持っていたのだろう。意気投合した二人は、荘園整理令を発行するなど、意欲的に新政策を打ち出していった。花山朝は結果的には二年しか保たなかったけれども、若い二人が懸命に、真面目に政治に取り組んだことの表れと見るなら、けっして意味のない期間だったとは思えない。少なくとも、権力闘争に明け暮れ、故実先例を守ることだけに汲々としていた老公卿たちに比べれば、まだしもましな政治家だったのではないか。

惟成の「春」

家集はそんな惟成の心のうちを垣間見せてくれる。33首のうち、前半は女性との恋の歌で占められている。中には「つかさたまはらぬころ」、花盛りを過ぎて降る長雨、その空の色に花の気付くのはいつだろうと、陰鬱な歌を詠んでいる。
 ところが後半部に入ると「春宮亮になり侍りて」、春を待ちわびていた桜の花が谷風に舞い落ちて、こんなうれしいときが来たのだと、眼前の春を謳歌することで我が世の春をかみしめている。残りの部分は花山院の行幸と歌合、それに七夕の折に詠まれたもの。これほどに内容が二分されるのも印象的だが、自撰家集と考えられているのはさらに興味深い。惟成が本当にこの配列で家集を編んだのなら、蔵人、春宮亮になってからの日々は彼にとって本当にうれしいものだったのだろう。
 『十訓抄』では、惟成が「いまさら世間に立ち混じることは見苦しいではないか」と、先に髻を切って剃髪し、義懐にも勧めたように記されている。五位の摂政と呼ばれていた2年の間に、やるだけのことはやったという思いがあればこその果敢な行動ではなかろうか。政界での将来がないとか、世間体が悪いということ以上に、惟成の胸裡には達成感や充足感があったはずである。
 出家後の消息が明らかでないのが、何とも惜しいが、2年後にはこの世を去っている。燃え尽きた、と言うべきか。
 

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