源賢法眼

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 父は鎮守府将軍源満仲。母は源俊女。源頼光の同腹の弟となるが、年の差が29歳もあり疑わしい。
 貞元2(977)年生まれ、源信の弟子。延暦寺に学び、長徳2(996)年に阿闍梨、長和2(1013)年には法橋、寛仁元(1017)年に法眼に至った。寛仁四(1020)年、44歳で没。多田法眼、摂津法眼、八尾法眼などとも称された。
 家集に『源賢法眼集』がある。

ここに着目!

侍の家系

 源賢法眼の父は源満仲、摂関家の侍として有名である。このころの侍と言えば傭兵のようなもので、陰謀渦巻く藤原氏の権力闘争においては常に走狗となって働いていた。花山天皇の退位事件などは、その好例だろう。兼家の意を受けた満仲は、息子頼光に道兼の警護をさせた。また頼光は道長に仕えた。新造成った邸の調度品をすべて調えて運び込んだ話は有名である。
 満仲には頼光、頼信など数人の男子があるが、若くして出家させられたのは末子の源賢のみのようである。父が65歳のときの子で、長男の頼光とは親ほどに年が違う。おそらく出家させられるまでの源賢は、父やおおぜいの兄たちに囲まれ、甘やかされていたに違いない。また、満仲は天元6(983)年に摂津守に任ぜられ、摂津多田荘に館を構えていた。京にいれば上流貴族の使い走りにすぎない満仲も、任国では一国の長として威張り散らせる立場にあった。源賢が出家したのが満仲の摂津行きの前後どちらになるかわからないが、もし摂津にいるときの父を幼いころに見ていれば、「親父があれだけ偉くて好き放題にしているのだから、俺も同じようにしていいのだ」などと思ったかもしれない。延暦寺で僧となったばかりのころは性格や行動がねじけていたというのも、それまでの生活が一変、厳しい仏道修行の毎日となって、落差を受け止めきれなかったせいだろう。

父の出家

『尊卑分脈』によれば、満仲は寛和2(986)年に出家している。その顛末は『今昔物語集』巻第十九第四に詳しく記されているが、どうやら源賢の奔走によるものらしい。父の満仲が摂津多田荘で仏教で禁じている殺生をするばかりか、領民にまで狼藉の限りを尽くすのを見て胸を痛めた源賢は、師の源信に頼み父に説法をしてもらった。満仲は発心し出家、多田新発意と呼ばれるようになった、とある。源賢はこのとき10歳。父に出家を促すにはいささか幼すぎるようにも思うが、『今昔物語集』の中で師の源信に説法をと頼み込む場面などには、子どもらしい言葉遣いがある。少なくとも『今昔物語集』の作者は、10歳でもできることだと判断していたことになる。
 ただ残念なのは、肝心の源賢が、源信を満仲に会わせるところまでしか登場しないことである。満仲の出家をどう思ったか、その満仲とどんな言葉を交わしたかなど、まったく描かれていない。当時の仏教的な観念から言えば、無用な殺生は地獄に堕ちるもととなると考えられている。父を出家させたことで、自分もまた救われたと胸をなで下ろした、というのは穿ちすぎだろうか。

家集の「子」は誰?

『源賢法眼集』は51首の歌から成り、そのうち半分以上が四季を詠んだものである。残りの歌のうち、童(わらわ)について詠んだものが数首ある。同じ延暦寺にいた稚児について詠んだのであろう。
 しかし一首だけ、「人のうみたりしこを、もりぬとて人にとらせたりしかば」という詞書のついた歌がある。歌は「思ひきやわがしめゆひし撫子を人の籬の花とみんとは」とあり、一度は自分のものであった子を、人手に渡してしまったということらしい。この子というのは誰のことか。源賢法眼に実子があったかどうかはわからない。たとえいたとしても、出家した身では人目を憚るだろう。それで養子に出してしまったのだろうか。源賢自身、おそらくみずから望んだのではなくして出家させられ、両親や兄弟たちと引き離された、それと同じようなことを我が子にもさせてしまったことで、あるいは身を切られるような思いを抱いたのかもしれない。

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