清原元輔女。母は不明。
康保三(966)年ころの出生。10歳前後で父元輔と共に周防国に下ったと思われる。16歳ころ、橘則光と結婚して一男則長を生むが、後に離婚。30歳近くなって一条天皇中宮定子のもとへ出仕した。定子の父道隆の死、兄弟たちの左遷によって定子が苦しい立場に立ったときも常に定子と行動を共にした。長保二(1000)年、定子が二女を生んだ直後に崩じ、清少納言はその一周忌以降に宮仕えを辞したとみられる。8年以上に及ぶ宮仕え生活の中から生まれた「枕草子」には、当時の後宮や政治家たちの有様がよく描かれていて、文学的にも歴史的にも価値が高い。
晩年は零落したという伝説があるが、60歳前後で没したらしい。
ここに着目!
| 出仕のきっかけ |
清少納言は、はじめ橘則光と結婚して男児を生んでいる。この結婚はかなり若いころのことで、おそらく本人の意思より周囲の勧めがあってのものと思われる。子どもがすぐに生まれたが、則光との仲はいつしか壊れたらしい。則長が12歳になったころ、清少納言は初出仕を果たした。清少納言が出仕を決心した一番の理由は経済的な不安だろう。則光とうまくいかず、しかも正暦元(990)年に父元輔が亡くなっている。元輔は受領として任地で没しているから任期中に蓄えた財産はあったろうが、それにしても女房として勤めに出る方が安定した収入が得られる。幸い息子の元服も近いので心配はない。推測に過ぎないが、出仕先は父の縁故を伝にして探したのではないだろうか。元輔の母は高階家の人である。高階家と言えば中宮定子の実家であって、定子の母である高階貴子が、自分の縁続きで信頼のおける女房を捜していたとも考えられる。夫と別れ、働きたいと思っている20代後半の女性なら、17歳ころの中宮の世話をするにはちょうどよい年回りである。しかも清少納言は後撰集撰者の歌人元輔の子で、曾祖父深養父も著名な歌人である。条件としては、揃いすぎているくらいだった。
清少納言は自分から宮仕えをしようとした、という考えもあるようだが、やはり定子側から求められてと考える方が自然なようである。出仕したてのころ、後の彼女からは想像もできないほど恥ずかしがったり臆したりしている様子からは、自分から望んだとは思えない事情が隠れているように感じられるからである。
| 再婚相手は年上の男 |
清少納言の夫としては、橘則光のほか、藤原棟世という人物がいるようである。出仕後に知り合ったらしく、長保二(1000)年に定子が没して宮仕えを退いた後、結婚して夫の任地である摂津に下ったと考えられる。長保元(999)年、棟世は摂津守であったことが知られるので、棟世が当時任地にいたとすると、清少納言は後から夫のもとへ行ったのかもしれない。
藤原棟世については、筑前・山城・摂津守などを歴任した受領であることがわかっている。父は藤原保方というが、保方の姉妹に盛子という女性がいる。盛子は伊尹・兼家らを生んだ師輔の妻である。棟世は兼家には従兄弟に当たる。年令については明らかでないが、応和三(963)年に六位蔵人になったこと、父保方の没年が天暦元(947)年であることなどから、生年は延長・承平・天慶年間(923〜946)ころと考えられる。蔵人の補任時の年令が20歳前というのは早すぎるので、実際には天慶六(943)年より前に生まれていることになる。そうすると、清少納言と結婚したのは60歳前後である。清少納言も30歳後半だが、年は25歳くらい離れていることになる。
清少納言はなぜ、このような老人と結婚したのか。父元輔のことを考えると、さほど不思議ではないかもしれない。清少納言は父が58歳ころの子であって、年老いた父親しか知らない彼女にとっては、はるか年上の男はそれほど敬遠すべき存在ではなかった。
清少納言は棟世との間に女の子を生んだ。後に藤原彰子に仕える小馬命婦と呼ばれる人である。娘が定子のライバルに仕えるのを、清少納言はどう思ったのか定かではない。だが、中宮定子に死なれてからは、棟世とこの娘は清少納言の支えだったのではないだろうか。父元輔と同じように、年老いてから乳飲み子を抱く棟世を見て、清少納言は満足したことだろう。「枕草子」の中に現れる勝ち気で陽気な清少納言とは、少し違った女の顔が見えてくるような気がする。 |