御形宣旨

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 源相職(901〜943)の女。村上〜一条朝ころの人。
 『大弐高遠集』には、東宮(花山天皇?)の宣旨であったと書かれているが、賀茂斎院の女房であったという説もある。『朝光集』に出家した記述があることから、朝光が死去する長徳元(995)年3月以前には出家していたことなどが知られる。『枕草子』にも取り上げられている。
 家集に『御形宣旨集』がある。

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出仕先は花山天皇?

  『枕草子』は、「上に、五寸ばかりなる殿上童のいとをかしげなるを作りて、みづら結ひ、装束などうるはしくして、中に名書きたてまつらせたまひけるを、『ともあきらの大君』と書いたりけるを、いみじうこそ興ぜさせたまひけれ」とある。
  ここで登場する「上」は、花山天皇とされている。御形宣旨には源惟正という兄弟がいる。おそらく兄だろうが、惟正は春宮大進、春宮亮として長く東宮時代の花山天皇に仕えており、その縁で妹も東宮に仕えたと考えれば不自然ではない。御形宣旨が花山天皇の東宮宣旨だったのはほぼ間違いないだろう。
また、「ともあきらの大君」は兼明親王のことを指していて、64歳の高齢で親王宣下が下ったことを揶揄して人形を作ったのだという。このとき、花山天皇が10歳、御形宣旨は少なくとも34、5歳にはなっていた。「普通は童のときに親王宣下があるはずなのに、おじいさんになってからなんて、おかしいわね」などと、花山天皇に語ったものだろうか。御形宣旨は子どもをあやすのがうまかったのかもしれない。穏和で落ち着いた雰囲気の中年女性が目に浮かぶ。花山天皇は一癖ある人格の持ち主だったが、御形宣旨は我が子のように愛おしんでいたのだろう。『公任集』には花山天皇の出家を悲しむ歌が残っている。

女の物詣

『御形宣旨集』は原本が大部のもので、脱落してしまったという説があるが、現存する19首だけでもなかなか興味深い。鞍馬山へ詣でたときのことがほぼ時間軸に沿って配列されており、旅に出発してから帰るまでのことをまとめた紀行文として読むと、おもしろいからである。
 御形宣旨は神無月の20日、琴を弾き、和歌を奉納しようと言う目的で友だちと一緒に鞍馬詣に出かけた。もともと夢の中で鞍馬山を見たからだと詞書に断りを入れているが、参詣をせよというお告げはあったのかどうか。当時の貴族女性の気晴らしと言えば物詣と相場は決まっていて、だから琴も和歌も夢のお告げも、口実のような気がしないでもない。
 ともあれ一行は出発するのだが、途中で空は暗くなり時雨れてくる。「くらま」の名の通りだと歌に詠み込んでみる。鞍馬に着いて琴を弾いていると空は晴れてきた。琴の音のせいだと当人たちは思う。
 だが季節は冬で、霜が降り、とても寝られたものではない。夜が明けるのももどかしく、一行は急いで帰途に着く。紅葉を見ようと往路と別の道を行ったはいいが、樵しか通らぬような狭い道、輿は揺れて大変な目に遭う。それでも帰ってきてみると、また行きたいわね、いつか行きましょうよ、となる。
 何だか現代の旅行とさして変わらない。違うのは、帰ってから腰痛を患っていることだ。これは輿に乗って慣れない山道を登ったり降りたりし、輿が上下に揺れるたびに、お尻が床に打ち付けられたせいだろう。ずっと座りっぱなしでは、背中や腰の筋肉痛にもなろう。牛車も輿も、優雅な乗り物にみえるが、案外乗り心地は悪かったのかもしれない。だが、「腰のみ痛くおもほえてくるしきさへぞかたみなりける(腰痛さえいい思い出になった)」という和歌を詠んでしまうあたり、御形宣旨という人、何にでも楽しみを見いだせる人だったらしい。日々のちょっとしたことにすぐ愚痴をこぼし、何かうまくいかないことがあると不機嫌になることが、この一首を詠むとばかばかしく思えてくる。 

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