朱雀天皇

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 醍醐天皇の十一男。母は藤原穏子。
 延喜二十三(923)年、醍醐天皇の東宮であった保明親王の急死の後、その子慶頼王が東宮に立てられたが、慶頼王も亡くなったため、東宮となり、8歳で即位。
 病気がちであったためか、24歳の若さで退位した。
 有名な承平・天慶の乱は在位中に起こっている。

ここに着目!

心やさしい天皇

 寛明親王(朱雀天皇)は醍醐天皇の第十一皇子として生まれた。奇しくもその年、同じく醍醐天皇皇子で兄である保明親王が東宮のままで亡くなっている。これは罪なくして配所に死んだ菅原道真の怨霊のしわざだとの噂が流れたため、寛明は3歳ころまで幾重にも几帳で取り囲んだ中で、外の光にさらさぬようにして育てられたと言われている。
 母の穏子は寛明を生んだときはすでに40歳代で、相当甘やかされて育ったのではないかと憶測したくなるが、特にわがままであったというような記録もなく、虚弱ではあったがやさしい人柄だったようである。『大鏡』には、「優におはします」「いとなまめかしう」とある。上品で柔和な人柄が浮かんできそうな言葉だが、それよりも先に思い浮かべてしまうのは、『源氏物語』の朱雀院である。母弘徽殿女御の後押しにもかかわらず、政治・芸術・女性関係と、どれをとっても弟の光源氏にいつも水を開けられて、形なしなのが朱雀院である。その影の薄い人物像を、紫式部は現実の朱雀天皇を参考にして作り上げたのではないか。もう一つ、朱雀天皇から物語の朱雀帝を思い起こさせるのは、この一首である。
「御やまひおもくならせ給ひて、太皇太后宮のいまだをさなくおはしましけるを、みたてまつらせたまひて、(『朱雀御集』より、『拾遺集』・『大鏡』ともほぼ同じ詞書で所収)
くれたけのわが世はことになりぬともねはたえせずぞながるべきかな」
 一粒種の昌子内親王が3歳になったとき、朱雀天皇は病に倒れた。先は長くないと知ったとき、娘のことを案じている姿は、若菜の巻で娘の女三宮の将来について思い悩む朱雀院を彷彿とさせる。
 『源氏物語』には名前がわかるだけで3人の天皇が登場するが、桐壺帝は創作、冷泉帝は賢帝で歴史上の冷泉天皇とは似ていない。それなのに朱雀帝だけが、なぜか現実の朱雀天皇と酷似している。紫式部はそこに、何を込めようとしたのだろうか。

◎退位の経緯

 わずか24歳で朱雀天皇が譲位した経緯は定かではない。『大鏡』によれば、朱雀天皇の孝心からきているのだと説いている。それは朱雀天皇が母后穏子のもとへ行幸した折のことだった。穏子は朱雀天皇を見てめでたく嬉しいことだ、そして東宮(村上天皇)のこのような有様も見たいものだと言ったのを、弟の即位を待っているのだと解釈した朱雀天皇は、譲位を急いだのだという。ただ、朱雀天皇はその後譲位したことを後悔していたらしい。復位したいという望みを祈願などしていたというから、やはり不本意な退位であったのだろう。
 契機としては、母親の一言も絡んでいるのかもしれないが、やはり師輔らの圧力があったとみる方が妥当ではないか。師輔は長女の安子を天慶三(940)年に成明親王(村上天皇)のもとへ入内させている。安子は14歳であって、朱雀天皇のもとへ入内させてもよかったものを、あえて成明親王へ嫁がせるというのは、何か考えるところがあったのだとしか思えない。しかも、このときは前後15年にわたって東宮不在の時期で、成明親王は東宮候補者に過ぎなかった。もし成明親王が東宮になり損ねたら、安子は完全に持ち駒としての意味を失うのだが、師輔はそれについては自信があったのに違いない。その上で、師輔は朱雀天皇を見限った。病弱な朱雀天皇に将来はないと思ったのか、あるいは先に入内していた煕子女王と朱雀天皇の中が睦まじいので、間に割って入ることは難しいと考えたのか。
 だが、朱雀天皇に男子が生まれた場合のことを、師輔は当然考慮していただろうと思われる。朱雀天皇の女御は、結局煕子女王と実頼の娘の慶子だけであったのだが、この二人のうちいずれかが男子をもうけることは考えられたし、安子の結婚の時点では、この二人以外にも別の女御が入内することもあり得たのである。そこに男子が生まれていたら、皇統は朱雀系と村上系で、分かち合う可能性もあったということで、そうなると次期東宮として朱雀天皇の皇子を立てることになっただろう。だとすれば朱雀天皇にも娘を入れておく必要がある。師輔は子沢山であって、おそらく二女であろう登子もいた。年齢は安子より三、四歳下として、十歳くらいであろうから、村上天皇のもとへは登子を入れて、安子は朱雀天皇に、という構図も書けないわけではない。それをしなかったのは、やはり朱雀天皇を腕ずくでも退位させる意図があったと見るべきである。


 

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