醍醐天皇の十四男。母は藤原基経女穏子。
19歳で立太子、兄の朱雀天皇の譲位を受けて、21歳で即位。藤原忠平の死後は関白を置かず、女御安子の父師輔、またその兄実頼の補佐を受けて親政を行った。
一般に村上天皇の治世は「天暦の治」と賞されるが、その実態はかなり粗末なもので、国政にはほとんど携わらなかったようである。
対照的に天皇は王朝風文雅の興隆を目指し、宮中では風流文事を重んずる風潮が流れていたらしい。「古今和歌集」に次ぐ第二の勅撰集「後撰和歌集」は村上天皇の命によるものである。また、清和・陽成・光孝天皇の時代を対象にした「日本三代実録」に続く形で、天暦年間に「新国史」なる史書が完成していたようである。
和歌の歌合も盛んに行われ、名高い天徳内裏歌合が行われたのも、村上天皇の在位中のことであった。
ここに着目!
| 舅に頭の上がらない天皇 |
廟堂の筆頭たる摂関や大臣らは、後宮政策において娘を天皇のもとへ送り込み、孫を天皇にすることに躍起になった。孫と祖父とは縦の血縁関係だが、これに兄弟姉妹という横の血縁関係が入ると、途端に結束力が弱くなる。村上天皇と師輔の場合もそうで、二人は従兄弟の間柄である。それよりは、師輔が女御安子の父であることの方が、村上天皇にとっては重要であった。師輔は官位においては兄実頼の下にいて、本来ならば天皇のパートナーは実頼であるべきところ、実頼の娘述子(村上天皇女御)が即位の翌年に没したことと、即位前から女御であった安子のいたことで、実権を握ることが可能になったのである。
師輔は人望もあったが押し出しの強い人物であったらしく、そのせいか安子も上流貴族の女性らしからぬ気の強いところがあった。同じく村上天皇の女御であった芳子の部屋との仕切に穴を開け、そこからかわらけ(素焼きの皿)を投げつけたことがある。天皇は、安子は兄の伊尹たちの入れ知恵でそんな真似をしたのだろうと思って伊尹たちを謹慎させたが、安子は天皇に抗議して、兄たちの謹慎を解かせた。恐妻家の天皇にとって、舅の師輔は煙たい人だったのではあるまいか。国政に参与せず、専ら文事に力を注いだのは、そうした要因があるかもしれない。
| 父の幻 |
師輔のこととは別に、村上天皇の脳裏には父醍醐天皇の姿があったと思われる。醍醐天皇崩御のとき、村上天皇はまだ5歳であったから、父の治世を目の当たりにしていたわけではあるまい。しかし、延喜の治として半ば理想化された時代を、自分は超えられないのではないだろうかと恐れていたに違いない。上に挙げた「日本三代実録」も「古今和歌集」も延喜年間に撰上されており、村上天皇はこれに負けない書物を世に送り出すことを急務としたのだろう。
しかし、師輔の死や内裏の全焼事件、飢饉、地方政治の弛緩など、天皇を打ちのめすことが次々に起こり、失意の天皇は42歳で病没した。村上天皇の治世は後に天暦の治として延喜の治と並び賞されるが、天皇自身は父に優る時代を作り得たとは思っていなかったのではないだろうか。 |