花山天皇

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 冷泉天皇の一男。母は藤原伊尹女懐子。

 皇統争いの最中、祖父伊尹らの期待を受けて生まれ、2歳で皇太子に立てられた。しかし、5歳で伊尹と、8歳で懐子と死別し、また伊尹の息子たちも次々に没して、17歳のとき強力な外戚のない状態で即位した。若い叔父義懐の率いる花山政権は求心力がなく、わずか2年で兼家らの策謀にはまり出家、退位を余儀なくされた。退位後は熊野で修業するなどの生活を送った。
 三代集の三番目、『拾遺和歌集』の撰者と伝えられる。

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風流人の居場所

 寛和二(986)年六月、花山天皇は宮中から姿をくらませた。寵愛していた弘徽殿女御(藤原為光女)と死別して気落ちしていた天皇は、道兼に、共に出家して女御の菩提を弔おうと唆され、連れ出されたのである。すべては藤原兼家一家の策謀によるものだった。京を出たころからは源満仲らに護送されるようにして、山科の元慶寺に着いた。ところが、いざ剃髪する段になって、道兼は親に最後の挨拶をしに戻ると言い出したのである。天皇は一抹不安を抱きながら許可したが、いったん寺を出た道兼はついに戻ってこなかった。
 騙されたと知ったときには、遅すぎた。その間に、道隆らは天皇の神璽や宝剣を懐仁親王のもとへ運び、道長は関白頼忠のもとへ報告に行っている。
 だが、いくら唆されてしたこととは言っても、花山天皇は自分で決心して宮中を抜け出したのであって、強制的に出家させられたわけではない。たとえこのときは思い留まったとしても、いつかは出家することになったのではないか。現に、退位の一ヶ月後には播磨の書写山円行寺で性空上人に会って結縁している。その後は熊野へ行って修業に明け暮れるようになることからも、もともと帝位に固執する人ではなかったようである。2歳で皇太子となり、17歳で即位と、何不自由ない生活も窮屈であったに違いない。仏道修行に励みながら、後から思えばそれほど魅力的な毎日でもなかった、と天皇は感じていたかもしれない。

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