一条天皇

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 円融天皇の一男。母は藤原兼家女詮子。
 外祖父兼家の策謀により、7歳で即位。11歳のとき兼家と死別し、外舅道隆を摂政とする。道隆の没後は道長を内覧として、32歳で没するまで廟堂をよく治めた。
 皇后定子、中宮彰子の一帝二后の事件は有名だが、そのため後宮には才能ある女性が次々に出仕して、平安時代の中でも一際優れた文化を生み出した。また、男性官僚にも優秀な人材が多く、彼らの能力を存分に発揮させ得たという点では、賢帝と言うべきである。

ここに着目!

道長との二人三脚は一条天皇の忍耐にあり?

 摂関あるいは公卿の筆頭となった大臣と、天皇の間に軋轢が生じることは珍しくない。一条天皇の時代を百年ばかり遡れば、藤原基経と宇多天皇の諍い(阿衡の紛議)があるし、藤原兼家と円融天皇の仲は決してよいものではなかった。一条天皇の後に続いた三条天皇も、道長と激しく対立している。
 理由はそれぞれだが、共通しているのは彼らがいずれも外戚関係にないことである。祖父と外孫の天皇ではなく、外舅(母方の叔父)と甥の天皇、といった関係であるために、意志の疎通がうまくいかないということは考えられる。だが確執の原因は、たいてい摂関の側にある。権力掌握を目指して、彼らは何事も強引に押し進めようとする、それが天皇の心証を悪くするのである。
 道長の場合も例外ではない。長徳元(995)年は悪疫の流行で公卿8人が相次いで亡くなった大変な年であった。この年の五月、道隆・道兼亡きあと、一条天皇は次の内覧を中宮定子の兄伊周か、あるいは道長に任せるべきかで悩んでいた。このときは母の皇太后詮子が道長を推し、一条天皇は折れざるを得なかったのである。道長自身の圧力ではないが、天皇にはしこりが残ったことだろう。
 それに比べると、長保二(1000)年の彰子立后のときは、明らかに道長の分が悪い。定子の立后の際も皇后と中宮を切り離して、結果二人の后が並立することとなったが、このときは皇后遵子が円融天皇の后、中宮定子は一条天皇の后だったのでまだ説明がついた。しかし、定子と彰子は同じ一条天皇の后となり、具合が悪い。能吏藤原行成が詮子の手紙を持参した上、うまく天皇に取りなし、皇后遵子も中宮定子も出家の身であって藤原氏の后が務める大原野祭に奉仕する后がいない、と言ったからいいようなものの、この言い訳がなければ非常に気まずいことになったかもしれない。行成の日記「権記」には、一条天皇と行成が一帝二后についての是非について語ったと記録されているが、天皇はむしろ道長の要求を受け入れることで、摩擦を避けようとしている。行成の苦しい理屈も助け船のように感じ、一帝二后に賛成しているところに、天皇の苦衷がある。道長と二人三脚で政治を行った16年間、おそらく天皇は言いたいことを呑み込んで、黙ったことが何度もあったろう。
 一条天皇崩御の後、天皇が書いたと思われる反故紙が見つかった。「叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国(蘭が茂ろうとすると秋風が吹いてこれを破るように、王が道理にかなう政治をしようとすると、邪悪な臣下が国を乱れさせる)」。道長は自分のことを言われたのだと思って反故紙を破り捨てたという。事実なら、道長にも心当たりがあったわけで、天皇に対して負い目を持っていたことになる。それにしても、天皇はどういうつもりでこの文句を書き付けたのか。聞けるものなら、一度聞いてみたい気がする。

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