事跡:
寛弘5(1008)年10月17日 |
件人々可為別当、雅楽亮源登平〈右衛門督申、〉(『小右記』) |
長和5(1016)年2月8日 |
登平(源)、〈五位還昇、〉(『小右記』) |
長和5(1016)年〜寛仁元(1017)年ごろ |
土佐守任官。源為善邸にて土佐下向の送別会(能因も出席) |
寛仁3(1019)年7月22日 |
相撲定文等下給、去年土佐守登平(源)申彼国膂力者八木頼高事(『小右記』) |
能因の友人。雅楽亮・土佐守などを歴任。
名を留めるということ
土佐守任官に伴い、源登平の土佐下向を間近に控えて、登平の叔父・源為善邸で送別会が行われた。そこへ能因も出席し、
別れゆく かげは汀に うつるとも かへらぬなみに ならふなよきみ
という歌を詠んだのである。
源登平という人の経歴は明らかでない。和歌も残っていない。雅楽寮に勤めていたことから、歌舞または何らかの楽器に秀でていたことが推測されるが、彼の実像にはそれ以上迫る材料を持たない。しかし、『能因集』に名が残されているおかげで、彼は確かに実在していたこと、能因と何らかの交流があったことを窺わせる。名を留めるということの不思議さと偶然性について考えさせられる人である。
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