事跡：　　

　能因の兄で養父か。一説に父。

『中古歌仙三十六人伝』
能因法師。遠江守忠望孫。肥後守為�ﾄ男。実弟云々。

『扶桑隠逸伝』
能因者。肥後守元�ﾄ子。

『大日本史』
橘永�ﾄ。左大臣諸兄十世孫、遠江守忠望ノ子、為兄肥後守元�ﾄノ所子養、

『百人一首一夕話』
能因俗名を橘永�ﾄといへり。橘左大臣諸兄公十代の孫、遠江守忠望の子なり。

　　　為�ﾄ殺害事件

　能因の長兄であると思われる為�ﾄとは、どんな人物だったのだろうか。
　彼が記録類に登場するのはただ一つ、自身が殺害されたという記事だけである。寛弘２（１００５）年正月ごろ、肥後守となって任国に下っていた為�ﾄは、７月８日、妻の小槻忠臣女の近親にあたる小槻良材という男に殺された。
　良材は郎党だったという。国司が任国に下る際、護衛に郎党を引き連れていくのはままあることだから、良材も為�ﾄの妻の縁で雇われて下向に随伴していたのだろう。良材という名はここにしか見えない名だが、小槻忠臣のほうは小槻氏系図にも記載があり、寛弘４（１００７）年当時主計頭であったことがわかっている。今でいう税務署のような仕事をする官職で、忠臣の子の奉親も父の職を継いだらしい。この忠臣の弟に忠信という人がいて、忠信に美材という名の息子がいる。良材もあるいは忠信の子であったかもしれない。すると、良材は雇い主であり、従姉妹の夫でもあった為�ﾄを殺害したことになる。
　『小右記』は何も触れていないが、殺害の理由が気になる。何か恨みがあったか、よほど許せないことがあって為�ﾄを殺したに違いない。一般的なところでは、仕事上のトラブルだろうか。良材が同僚たちの前で為�ﾄに名誉を傷つけられるようなことを言われたとか、為�ﾄが最初の契約を違えて俸給を出さなかったとか、そういったことが考えられる。しかし、下向してまだ半年も経っていないと思われるので、深い恨みになるかどうか、疑問である。
　むしろ、良材は為�ﾄが肥後守になる前から知っていて、そのころから恨みを抱いていたと考えるほうが自然かもしれない。たとえば、良材が妻にするつもりだった女を為�ﾄが横取りして妻にした、というような恋愛がらみの恨みである。その女が小槻忠臣女であったにしろ、別の女であったにしろ、愛していた女を力尽くで奪われたなら、殺したいほど憎んだとしても不思議ではない。
　興味を引くのは、その後良材も自刃しているということだ。江戸時代のように、切腹して後始末をつけようという武士道的な考え方のない時代に、これほど潔い行為ができるのは、愛する女に対する何らかの意思表示であったように思われるのである。証拠があるわけではないが、何となくそのような匂いがする。良材が自殺したのでなく、事件の真相露見を恐れた周囲の者の殺害であったとしても、女がらみなら説明がつく。中央政府などに申し開きをするのに、醜聞は避けたい。当事者である良材が生きていては困るのである。
　この事件から浮かぶ為�ﾄ像は、あまり好人物とは言えない。部下に恨まれるような酷吏だったのでは、と思わせる。能因は大学寮で『肥後進士』という呼称をもらっていたようだが、これが為�ﾄの肥後守任官によるものだとすれば、養父が客死した事件は能因にとって非常に迷惑なことだったろう。同窓の者にからかわれたかもしれないし、この名称自体が揶揄を含んでいるようにも思われる。能因が為�ﾄを慕っていたとは、ちょっと想像できないのである。