事跡:
寛弘4(935)年ごろ、出生?
寛和元(985)年4月23日、『小右記』に「又内蔵寮使信輔令奏明日忌日
之由、仍以大監物忠望為代官」
正暦3(992)年12月7日、『小右記』(『諸院宮御移徒部類記』による補遺
の逸文)中宮入内の叙位に際し、
「近江守橘忠望叙従四位上 造彼宮行事云々無由」
以降記録に見えず、没するか
能因の父、一説に祖父。
『中古歌仙三十六人伝』
能因法師。遠江守忠望孫。肥後守為ト男。実弟云々。
『扶桑隠逸伝』
能因者。肥後守元ト子。
『大日本史』
橘永ト。左大臣諸兄十世孫、遠江守忠望ノ子、為兄肥後守元トノ所子養、
『百人一首一夕話』
能因俗名を橘永トといへり。橘左大臣諸兄公十代の孫、遠江守忠望の子なり。
能因の父は誰?
能因が誰の子であるかという問題は、史料の記載がまちまちであることから確実にしがたいが、学者の意見は以下のように分かれている。
@忠望の子だが、兄元トの養子となった
清水文雄 『文芸文化』昭和16年、「能因法師傳(その一)」
A忠望の子だが、長兄為トの養子となり、為ト没後に次兄元トの養子となった
川村晃生 『摂関期和歌史の研究』 平成3年
A忠望は祖父。能因は元トの子で、為トの養子となった?
犬養廉 『国語国文研究』昭和40年、「能因法師研究(一)」
為ト・元トが忠望の子であることはほぼ確実だろう。元トが寛和2(986)年ごろから記録に見えていることを考慮すると、元トは960年代には出生していたことになり、その父である忠望は940年代には出生していたとみるべきである。そうなると、988年生まれの能因とは50歳近く年齢に隔たりがあり、能因は忠望の子としても、かなり晩年にできた子で、為ト・元トとは20歳ほど年の離れた弟ということになる。
このような場合、たとえ実父が健在であっても、先々のことを考えて小さい弟を成人した兄の養子にすることはあり得る。忠望が死亡していたならなおさらであり、能因は若くして兄の養子となったに違いない。能因が5歳までは忠望も生存していたが、まもなく没したとする。能因は長兄為ト(当時30代か)の養子となり、10代の初めに文章院(大学寮)へ入って勉学に励んだ。為トは能因18歳のとき、不慮の死を遂げたため(橘為トの項参照)、今度は次兄元トを養父とした……。つまり、Aの推測が真実に近いのではないかと思われる。
能因は家集の中で、「ものの中より、うぶぎぬといふ物を、みつけて」という詞書で「たらちねの むかしの袖を みつる哉 うかやふきけん ときの衣に」と歌を詠んでいる。当時の産衣は、親の衣の一部を子の産着に仕立て直したものらしく、男の子の場合は父親のものを使ったという。ならば、能因の持っている産衣は、忠望の衣だったのではないだろうか。
家集の順序からみて、能因は40歳を過ぎてからこの歌を詠んでいるらしい。自らも老年期に入った能因が思い出している父親とは、祖父と言ってもいいほど年の離れた忠望か、それとも二人の養父か、いずれであろうか。
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