藤原宣孝

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事跡:
 天暦6(952)年ごろ、出生
 天元5(982)年1月10日、蔵人として叙位に奉仕
           1月17日、射遺の準備を命ぜられる
           3月11日、実資・済時の中宮大夫・亮となるに際し奏慶す
           7月16日、蔵人左衛門尉として丹生社祈雨奉幣使となる
           10月17日、院判官代蔵人に補す
           11月27日、賀茂臨時祭に駒引きを怠る
           11月29日、駒引懈怠の件で召問せらる
           12月1日、実資、駒引懈怠の件で奏上
 寛和元(985)年5月29日、御錫紵を除き給うことに関して延喜の例を述べる
           7月13日、丹生使蔵人左衛門尉宣孝の小舎人ら地元民に陵轢される
 正暦元(990)年3月晦日ごろ、御獄詣。
           8月30日、筑前守。
 正暦3(992)年9月20日、少弐兼筑前守(993年8月28日説も)
 長徳元(995)年、この年帰京
 長徳3(997)年ごろ、近江介源則忠女に求婚?
 長徳4(998)年1月23日、右衛門権佐に任ず
           3月20日、石清水臨時祭試楽で舞人として奉仕
           7月2日、病悩
           8月27日、山城守兼任
           11月3日、慣例の官掌以下給禄の行事に参加
           11月30日、賀茂臨時祭に舞人として参加
           秋ごろ、紫式部と結婚
 長保元(999)年、8月18日、所領田中荘の凶党早米使を殺害し逃走
            11月7日、中宮定子の御産に奉仕
            11月11日、賀茂臨時祭調楽に人長として妙技をふるう
            11月27日、宇佐使として西下
 長保2(1000)年2月3日、帰京
            4月1日、平野臨時祭勅使となる
            7月27日、相撲節会に列席
            10月15日、殿上音楽に奉仕         
            この年、紫式部、娘大弐三位を出生?
 長保3(1001)年1月2日、供御薬事に奉仕
            2月5日、春日祭代官を命ぜられるも痔病のため辞退
            4月25日、没(流行していた疫病のため?)

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年上の男

 紫式部の出生年度が定かでないのと同様、夫宣孝の出生年度も明らかではない。だが式部が12歳のころ、式部の父為時と同僚となったこともあり、また式部より年上らしい長男(隆光)がいることから考えて、少なくとも16、7歳は年齢差がある。
 それで、これだけ年が違うのだから、式部は宣孝のことをさほど愛していなかっただろうと考える人もいる。が一方で、式部は宣孝を相当愛しており、宣孝の死で寂しさに堪えられなくなったために『源氏物語』は書かれた、と言う人もいる。
 20近い年齢の差をどれくらい式部に気にしていたか、は当人に聞くしかないことで、直ちに結婚生活は不幸だったと言えるはずもない。ただ家集には宣孝との仲をうかがえるような歌がかなりの割合を占めることから、式部はいやいや結婚したのではなく、また宣孝のこともそれなりに愛していたように思える。
 そう思えるのは、宣孝が光源氏のモデルの一人であろうと考えられるからである。光源氏のモデルは複数であるというのは定説で、たとえば源高明は賜姓源氏であり藤原氏に左遷された部分を(左遷ということでは、藤原伊周などもモデルと言われている)、道長は政敵に勝って栄華を極めた部分を、具平親王には文雅の道に秀でた部分を、というようにいろいろな実在の人物からある特徴を持ってきて源氏の人物像を作り上げている。その中で、宣孝はおそらく、源氏の堂々とした押し出しのいいところを受け持っているのではないか。何度か祭の舞人や人長を勤めたくらいだから、人前に出ても緊張しない、肝の据わった人であったろうし、『枕草子』で有名な御獄詣のパフォーマンスからは、大胆なこと、人をあっと驚かせることを好んだ性格を窺わせる。それは若き日の源氏の大胆不敵な行動と無関係ではないだろう。源氏の空蝉への強引な行為は、一般には身分の高い源氏の傲慢さと考えられているが、あるいは宣孝が初めて式部に逢ったときもそのようであったとも考えられ、式部も初めは嫌悪感を抱いたとしても、次第にその強引な面に惹かれていったかもしれない。加えて、文の上に朱を降りかけて、「わたしの血の涙です」などと言うのは、50歳目前の男のすることとしてはずいぶん若々しく、茶目っ気さえある。人前に出て自己主張することを極端に嫌い、まじめで几帳面、慎重な性格らしかった式部とは対極にいるような宣孝だが、だからこそ自分の持ち得ない面を求めたのだろう。
 かと言って、宣孝との結婚の前に、別の男性との恋愛がまったくなかったとする説はどうかと思われる。家集の4・5番歌は式部の恋愛歌の中では最も若いころに詠んだものらしく、この相手を宣孝とする説も有力だが、それとて宣孝以外の男性を考える妨げになるわけではない。
 仮に、宣孝以前の恋人の存在を認めたとして、その恋人が宣孝ほど年上であったとは考えられず、むしろ式部の年と似合いの従兄か、あるいは父為時の同僚、詩文仲間の子息などが可能性の高い相手ではなかろうか。そして、理由はわからないが、結局その恋人とは別れて宣孝と結婚することになった。式部は不本意だったかもしれない。けれども、年の離れた宣孝からは、若い恋人とは違った落ち着きや、人生の先輩としての重みや、尊敬できるところも多々あったことだろう。年齢差は、やはりマイナス要因ばかりとは言えない。つまるところ、宣孝の人格そのものが問題であって、それは先述のとおり、なかなか魅力ある人なのだ。
 式部は急死した宣孝への挽歌をほとんど詠んではいない。夫の死を悲しまなかったわけではあるまいが、「あの人からは、いろんなものをもらったわ」というある種の満足感があったのではないだろうか。そして後に『源氏物語』の中に、夫の姿を織り込んでいったのではないだろうか。

 

 

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