藤原通経

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事跡:
 康保2(965)年ごろ、出生
 正暦4(993)年6月24日、六位蔵人補任 左衛門少尉
  正暦4(993)年11月1日、左衛門少尉として記録に見える
 長徳2(996)年、「道経」越後守として見任
 寛弘4(1007)年ごろ、結婚し一子章祐を儲ける?
 寛弘8(1011)年2月2日、常陸介に補任
            8月25日、常陸介見任
    
極官:従五位上
   
ここに着目!

越後守道経とは?

 紫式部の従兄弟は『尊卑分脈』で確認できるだけでも9人いる。そのほとんどが六位蔵人を経て国司に任ぜられ、地方暮らしをするといういわゆる「受領」としての人生を歩んでいる。この通経もそうで、20代は六位蔵人であった。ただし、それから40代に至って常陸介になるまでの20年近くが空白である。おそらく30代初めにはどこかの国司になっていたはずだが、現存の記録に見当たらない。
 ところが『国司補任』などを見ると、長徳二年、「道経」という名前の者が越後守であった。これは「通経」の誤記ではないのだろうか。そう思う根拠の一つに、紫式部の縁者で越後守となった者がいることを挙げたい。式部の父の為時が寛弘8(1011)年に補任、これは式部の従兄信経の後任ということで、信経が叔父の為時に譲ったようである。『小右記』では実資が長和3年6月17日のところに「信経は前司の姪(をひ)也。又聟也」と記しており、信経にとって為時は舅でもあった。もっとも為時は長和3(1014)年に官を辞して帰京してしまったため、再び信経が任ぜられている。実資はこうした半ば私物化したような官位の扱い方に怒りを覚えているのだが、確かにこのころ、一つの国の国司に親類縁者が集中してくる現象が起きていた。通経が弟の信経より以前に越前守であったことも、これで可能性が高くなるわけである。
 そして、通経が長徳年間に越後へ赴いていたとすると、思い至るのは紫式部のことである。式部は長徳2(996)年に父の供をして越前へ下向した。婚期を逸しかけた娘が都から遠い国へと行くのには何か事情があったと考えられるが、その理由に通経があったのではないかという気がする。越後にいる従兄に会いたいがために、越前行きをみずから申し出たと憶測すると、式部の不可解な行動も納得できる。
 通経は、式部の初恋の相手ではないだろうか。『源氏物語』に登場する夕霧と雲井雁も、従兄妹同士で恋をする。式部は裳着もしていない幼いころに筒井筒の仲であった従兄との思い出を下地にして、この二人の恋を描いたような気がしてならない。違いは、夕霧は大学に入ったのに対し、通経は衛門府で勤務する武官であって、おそらく大学には入っていないということであろう。ただ、通経の母は源忠幹の娘で、有名な源為憲の姉妹に当たる。為憲は当時著名な漢詩人で、具平親王や慶滋保胤など、為時の所属する漢詩文仲間とも昵懇であった。『三宝絵詞』など著作も多い。伯父が学者であるから、通経も文雅の香ある家に育ったに違いない。幼い式部がそれを感じ取っていたとすれば、通経の面影を夕霧に投影したのかもしれない。
 式部は物語が進むほどに、幼いころ、若いころの体験を物語の中に反映させるようになっていくようである。現実には、具平親王家に出仕するなどで実らなかった恋を、式部はせめて成就させたかったのではないか。『源氏物語』中では異質と思われるくらいのハッピーエンドを迎える夕霧と雲井雁、こう考えると割合違和感がないのだが、どうだろうか。

 

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