事跡:
貞観15(873)年、出生
寛平4(892)年3月21日、内舎人(春宮御給)
7月21日、陸奥権少掾
寛平8(896)年1月7日、叙従五位下(春宮御給)
2月15日、尾張権守
寛平9(897)年7月5日、右少将
寛平10(898)年、1月29日、相模権介
昌泰3(898)年2月25日、備前守
5月15日、復任
昌泰4(899)年1月7日、叙従五位上
1月26日、左少将
延喜3(903)年1月7日、叙正五位下
延喜4(904)年2月10日、近江介
延喜6(906)年1月21日、叙従四位下
2月15日、右権中将
延喜8(908)年1月2日、備前守
延喜9(909)年4月9日、参議
延喜10(910)年1月7日、叙従四位上
延喜12(912)年3月27日、近江権守
延喜13(913)年1月28日、中納言、従三位(6人超)
4月15日、左衛門督
延喜19(919)年1月28日、按察使
9月13日、右大将
延喜20(920)年1月30日、大納言
延喜21(921)年1月7日、叙正三位
延長元(923)年4月29日、東宮傅
延長2(923)年1月22日、右大臣
延長4(926)年1月7日、叙従二位
延長8(930)年12月17日、左大将
承平2(932)年8月4日、没
8月11日、贈従一位
『古今集』以下勅撰集に18首入集する歌人。
家集:『三条右大臣集』
書陵部蔵本(501・69)が唯一の伝本。全歌数35首。雑纂形式で、詞書が長く、歌物語的要素が強い。『大和物語』との関連もあるか。『兼輔集』との関連も深く、20首近い共通歌があり、撰者は兼輔である可能性が極めて高い。
ここに着目!
| 風流韻事と政治的野心 |
藤原定方は定方女の項でも述べたが、女子の数が多い。その結婚相手を子細に見ると、
一女能子 醍醐天皇(風流文事に優れていることで知られる)女御
二女 代明親王(多くの詩文を残す具平親王の祖父)室
三女 藤原兼輔(堤中納言として名高い。紫式部の曾祖父であり、歌人)の室
九女 藤原師尹(師輔の弟だが、家集を遺している)室
十一女 藤原雅正(兼輔息で紫式部祖父)室
など、いずれも文藻の香り高い人と娶されている。
定方自身、他撰らしいが家集があり、和歌に堪能であったことを窺わせる。
家集の30首あまりの歌の中で、最も目を惹くのは、藤原兼輔との贈答歌16首であろう。定方の歌8首、兼輔の歌8首で、ほぼ家集の半分である。家集の選者として、兼輔が候補に挙がっているくらいなので、当然のことであろう。兼輔は定方の三女の婿であり、三女が生んだ雅正はまた定方の十一女と結婚するのだから、二重になる縁戚関係を結んでいる。兼輔を婿に迎えたころ、兼輔は五位蔵人あたりだったと思われ、政治的・事務的能力のほどを計ることは難しいと言うほかないが、定方が若いころから兼輔の人格を相当評価していたことは確かだろう。ただし、二人の年の差は4歳しかない。そして二人とも和歌に堪能であったことで、おそらく実際には舅と婿ではなく、親友としてつきあっていたと考えられるのである。
ところで定方が生きた時代は、政治的にはどういう情勢であったのか。
藤原時平が菅原道真との権力闘争で道真排斥に成功(太宰府へ配流)したのが延喜元年。時平には宇多天皇に入内した妹の温子がいるが、温子にはなかなか御子が生まれなかったため、醍醐天皇の後宮に入内していたもう一人の妹、穏子の生んだ保明親王が2歳で立太子、東宮となる。保明親王の即位を見ることなく、時平は延喜9年にはこの世を去った。定方はその年に参議となって台閣に列したのである。
だが、保明親王は21歳で東宮のまま没してしまう。このころ、時平が没した後を引き継いだ形となっていたのは弟の忠平だった。忠平は親王の子慶頼王を東宮に立てるのだが、この慶頼王も2年後に没すると、今度は穏子の生んだ保明親王の弟寛明親王(朱雀天皇)を担ぎ上げる。何としてでも自分と濃い血縁関係にある人間を帝位に就けたいという時平・忠平兄弟の執念とでもいうようなものを感じずにはおれない経過である。
対照的なのが定方であろう。いつの間にか姉の生んだ皇子が即位して、甥が天皇という幸運な立場にあった。醍醐天皇は文雅に造詣深く、名君と謳われている。これを利用しない手はない。定方と兼輔は、紀貫之などの宮廷専門歌人らを庇護しつつ、みずからも作歌して歌人たちの集いの場を作った。歌人が集まれば、そこはサロンとなる。それは醍醐天皇の歓心を買うことになる。それから、定方は一女の能子を入内させた。保明親王が東宮になっているとは言え、保明に皇子がなく、もし能子が皇子を生めば、その子が次の東宮となるときがくるかもしれないではないか……。
定方はこう考えたのだろうが、当の醍醐天皇は能子をさほど寵愛していなかったらしい(『大和物語』には、能子が上御局でおいでを待っていたのに、天皇にすっぽかされた話が出ている)。そして、醍醐天皇と能子の間には、結局子は生まれなかった。
ここで、忠平であれば少しでも望みのありそうなところへ賭けるところだろう。すなわち保明親王にほかの娘を妃として差し出すのである。が、定方はそれをしなかった。能子の代わりに別の娘を醍醐天皇の後宮に入れようと考えたふしがある。親友兼輔が娘の桑子を醍醐のもとへ入内させているが、あるいはこれは定方の意志も入っているかもしれない。
醍醐天皇には大勢の女御がおり、その上10人以上の皇子が生まれている。にもかかわらず、兼輔がなぜ桑子を醍醐後宮へ入内させたかというと、要するに血の問題であった。兼輔も定方も藤原良門の子孫で、藤原良房を祖とする基経、時平、忠平らから見ればすでに傍流となっている。定方と忠平も祖父同士が兄弟だから又従兄弟で、決して他人ではないのだが、又従兄弟などというのは権力の前には他人より疎遠になる。定方は、良房系の血を引く東宮保明親王を認めたくなかったのではないか。あくまで良門系の醍醐天皇と、わが娘(あるいは良門系の女性)の間に生まれた子が皇統を継いでくれることを望んでいたのではないか。
延長8(930)年、醍醐天皇薨去の折、定方と兼輔は悲痛の想いを込めて歌の贈答を繰り返している。もちろん、醍醐天皇への純粋な哀悼の意もあっただろう。しかし、醍醐天皇の死で政権は確実に忠平のほうへ移ったことを感じて落胆したせいもあったのではないか。定方はその2年後、兼輔はその半年後に相次いで亡くなったが、これは偶然とは思えない。醍醐天皇の死によって、二人は内に秘めていた宿願成就の道を閉ざされたばかりでなく、風流文事の尊ばれる醍醐治世の終焉を感じ、生きる気力を奪われたのではないか。後に延喜・天暦の治と称されるほど、当時の人々には醍醐・村上天皇の治世はよき時代であったという認識が一般にあったが、事実はそうではなかった。延喜年間には律令政治が行き詰まりを迎えており、また時平は地方政治の改革などにも力を入れていたが、忠平は改革などには興味がなかったらしい。それでも、醍醐天皇を中心として和歌の世界に紀貫之などの傑出した歌人が出たことによって、理想的な時代だと思われるようになってしまったのではないだろうか。定方らのようにみずからが歌人である平安貴族にとって、文化の隆盛が途絶えることは、すなわち生きる価値を喪ってしまうほどの重大事であったのかもしれない。
70年後、紫式部が描いた『源氏物語』の世界は、まさに二人の曾祖父が希求した時代を表しているように思える。
参考文献:
三条右大臣集
兼輔集
大和物語
山岸徳平著作集U和歌文学研究 山岸徳平
有精堂出版 S46/11
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