藤原定方十一女

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事跡:
 延喜15(915)年ごろ、出生?
 (938)年ごろ、雅正と結婚?
 (939)年ごろ、長男為頼を出産
 (941)年ごろ、二男為長を出産
 (947)年ごろ、三男為時を出産(その他女子も出産?)
 応和元(961)年11月、夫雅正と死別
 長徳2(996)年までは生存? 
 
 陽明文庫蔵『後拾遺和歌抄』第三、夏、237番歌の作者 藤原為頼朝臣に施された脚注:

 藤原為頼朝臣、太皇太后宮大進従四位下。中納言兼輔卿孫、刑部少輔従五位下雅正男、母一条摂政家女房。

ここに着目!

「定方」ファミリーは文化的一大勢力

 紫式部の父方の祖母は、藤原定方女と素性がわかっている。それで『尊卑分脈』を見ると、定方という人は子だくさん、しかも女子の多いのに驚かされる。『尊卑分脈』に掲載されている女子は14人、男子も合わせるといったい総勢何人の子持ちだったのだろう。
 驚くのはそれだけではない。定方の娘たちの結婚相手がまたそれぞれに家柄のよい公達なのである。
 一女は仁善子、醍醐天皇女御で後に藤原実頼の妻になった人である。
 二女は代明親王の妻であった。親王との間には荘子女王がおり、荘子女王は具平親王の母である。為時は若いころ、具平親王家の家司だったようで、また和漢の詩文の才能に恵まれた親王は為頼や為時を文学を語る仲間とみなしていたらしい。代明親王の娘には頼忠に嫁して公任を生んだ人がいるので、具平親王、公任、為頼らは定方を祖とするファミリーの一員と言える。
 三女は藤原兼輔の妻となり雅正を生んだ(紫式部の祖母は定方の十一女だったと推定されるから、雅正は叔母が妻であり、近親結婚をしたのである)。
 また、定方の娘の中には藤原師尹室になった人もいる。師尹の男子には貞時、済時などがおり、家集などで知られるように、為頼たちは済時にも近しい存在であった。
 為頼、為長、為時の3兄弟は、このように定方ファミリーの貴顕に仕えていた形跡がみられる。ところが皮肉なことに、実頼や師尹の子孫は当時羽振りの良かった師輔流の兼家などに押され、次第に権力の中枢から遠ざかっていく。為時が花山天皇朝で一花咲かせたのち、長い不遇時代を味わうことになったのも、もともと定方ファミリーに属していたからに他ならない。
 けれども、政治の世界では非力であった彼らが、和歌や漢詩文の世界では当代一流の歌人・詩人たちを有するサロンを形成していたことは注目に値する。もともと定方も兼輔も歌人として著名な人であり、彼らの子孫が歌の道に秀でているのは当然である。
 式部の祖母という人は、おそらく式部が越前に行く長徳2年ごろまでは生きていたらしい。為頼が祖母に代わって式部たちに餞別を贈っているからだが、それから考えると式部と同居していた可能性は低くなってしまうような気もする。ただ、この祖母が母を早くに喪った式部姉弟をかわいがっていたことはあり得るわけで、幼い式部に父定方のありし日のこと、自分が仕えた伊尹家や女房生活の様子、その文化の香りみちた暮らしぶりを語って聞かせたことだろう。式部のほうでも、優れた歌人を輩出している祖父母の家系に畏敬の念を抱いていたことだろう。
 この祖母が長く生存していたという事実はまた、式部が具平親王家に宮仕えしたという説を裏付けることにもなるかもしれない。幼いころから聡明だった式部の才能を祖母が見抜いていて、自分も経験した宮仕えを勧めたとすれば……あるいはこの祖母も、式部の父為時と同様、『源氏物語』陰の制作者と言えるのではないだろうか。

参考文献: 
 三条右大臣集
 為頼集 
 大和物語
 兼輔集 

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