藤原為時

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事跡:
 天暦元(947)年ごろ、出生
 天徳4(960)年3月30日、内裏歌合に殿上童として出席 
 康保4(967)年ごろ、蔵人所雑色に補す
 安和元(968)年11月17日、播磨権少掾
 天禄元(970)年ごろ、為信女と結婚?
 天禄2(971)年ごろ、為時長女出生?
 天延元(973)年ごろ、紫式部出生? このころ播磨より帰京?
 天延2(974)年ごろ、為信女、長男惟規を出産しまもなく没?
 貞元2(977)年3月28日、東宮(花山天皇)の御読書始に副侍読として侍す
 天元3(980)年ごろ、三男定暹出生?
 永観2(984)年8月27日、式部丞に任じ六位蔵人
           11月14日、女御藤原忯子直廬の酒饌に召されるも応ぜず  
           12月8日、内御書所衆となる
 寛和元(985)年正月5日、東宮大饗に奉仕
           1月18日、宣孝とともに賭弓に奉仕
                          春、蔵人左少弁として道兼粟田邸にて残花宴に出席し「惜残花」を詠歌
           3月11日、石清水臨時祭延引の由を別当光誉に伝える
           4月25日、陸奥国司(為長)の貢馬を留めたことに関し実資の質問に答える
           10月25日、宣孝、為輔らとともに大嘗会の御禊に奉仕
 寛和2(986)年2月16日、式部大丞として列見に参入
           春、具平親王桃花閣の宴に参加
           6月23日、花山天皇退位により官を辞す
 永延元(987)年夏、具平親王より去年の詩宴について懐旧の詩を賜り作詩
 正暦4(993)年1月22日、綾青色の袍を着て宮中詩宴に出席
 長徳元(995)年ごろ、長女夭折?
 長徳2(996)年1月25日、従五位下で淡路守に任じ、愁訴
           1月28日、越前守
           夏、紫式部を伴い任国へ赴任
           9月6日、若狭に漂着した宋人越前に移送。羗世昌と詩を唱和
 長保3(1001)年春、越前より帰京。
            10月7日、東三条院四十賀に屏風歌を詠進
 長保4(1002)年6月13日、弾正宮為尊親王の薨を見舞う
 長保5(1003)年5月15日、御堂七番歌合に出席
            夏、行成「世尊寺詩」に次韻す
 寛弘3(1006)年3月4日、東三条邸の花宴にて作詩
 寛弘4(1007)年4月25・26日、内裏密宴の作文に出席。
            夏、頼通邸にて作詩
 寛弘5(1008)年3月14日、正五位下、蔵人左少弁
 寛弘6(1009)年7月7日、庚申序を作文
            12月7日、占卜のことにつき仰せ言あり
            12月29日、僧綱補任の件につき行成に問い合わす
 寛弘8(1011)年、2月1日、越後守に任じ惟規を伴い下向
             秋頃、惟規、越後にて没
 長和3(1014)年6月14日、官を辞して帰京
 長和5(1016)年4月29日、三井寺にて出家
 寛仁2(1018)年1月21日、頼通大饗の屏風歌を詠進

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『源氏物語』は父娘合作?

 紫式部は、あの長大な『源氏物語』全編を一人で執筆していないのではないか……宇治十帖は娘の大弐三位が書いたとか、いや、宇治十帖の最初の3巻は後人の作だとか、様々な説がある。むろん決め手になる証拠もないこととて、今のところは”いちおう””ほとんど”紫式部が書いたことになっている。
  ところが古注釈などには、式部の父為時が『源氏物語』作者であったとする説もあって、これも嘘だと断言できる証拠はないから、検討してみる余地はある。
 第一に、為時はあの『源氏物語』を書くだけの教養と知識があったのか? 
 あったのである。
 為時は大学の文章生出身者だから、学問(特に漢文)は得意分野だった。当代の漢詩人としては一流で、『本朝麗藻』などにも作品は残っている。古今の書物を引用しつつ、仮名で物語を書こうとすれば、できるだけの能力はあったろう。
 第二に、為時は物語などを書ける環境にあったのか?
 あったのである。
 上記、為時の足跡をよく見ると、寛和2年から長徳2年まで、実に10年間も散位(実際の官職のない状態、つまり失業中)暮らしをかこっている。と言っても、財産としての荘園なども所有していただろうから、食うに困るほどではない。家は祖父の代からの邸宅があり、兄の為頼も健在なので、生活の心配はまったくない。
 つまり、為時はヒマだったわけである。どちらかというと非社交的な彼のところへは、頻繁に来客があるわけでもない。となると、詩宴などに招かれる以外は、おそらく暇をもてあましていただろう。ちょうど40歳から50歳にかけて、働き盛りの男が、食う心配もなくヒマだったのである。「羨ましい!」と言うべきか、哀れむべきか。
 ともあれ、ヒマな為時は母の亡い3人の子女の教育に熱心だったに違いない。紫式部について言えば、少女時代から物語らしきものを書き散らしていることを、当然知っていただろう。「今は夢中になっているが、一時的なことだ。結婚でもして、子どもができればやめるだろうよ」と思っていたはずだ。そのうち式部の姉が亡くなり、式部はますます物語にのめり込んでいく。為時はおののく。これは単なる暇つぶしの域を超えている。式部の学才を惜しむ為時は、物語を書くことで少しでも昇華されるならと、娘の執筆を手伝った。と言っても、最初は式部に質問されたことに答える程度だった。宮中の様子とか、儀式次第、上流貴族たちの動静といったようなことである。そのうち、物語を読んで感想を聞かれる。筋の運びや構想に意見をするようにもなる。共同執筆でなくとも、為時が関与したことは大いに考えられる。一般に、『源氏物語』は式部が夫宣孝と死別してから書き始めたとされている。しかし、それ以前にも習作のようなものは書いていたはずで、為時はその時分から協力していたことになる。
 そしていよいよ、『源氏物語』の執筆が始まったときも、為時は傍らにいていろいろと助言しただろう。式部の寡居時代、為時は越前から帰京しているからである。式部が宮仕えに出るまでにどの巻まで書いていたかは諸説あるが、とにかく初めのほうの数巻は為時の協力なしには完成しなかったことはたしかだ。
 紫式部は、自分が女ゆえに学才を生かせる道がないと口惜しく思っていただろう。しかし、男の為時もまた、学問や詩の才能があるからと言って、世の中で重んじられることはないと知っていた。『源氏物語』は父と娘それぞれの満たせぬ思いが作らせた産物なのかもしれない。

参考文献:
 本朝麗藻 
 紫式部の恋 近藤富枝 講談社 H4/12(「一般書」に掲載)

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