事跡:
天延3(975)年ごろ、出生。
寛弘7(1010)年ごろ、信経と結婚?
没年など不明。
ここに着目!
| 幻の為時三女 |
紫式部には、同母の姉と惟規のほかに、惟通、定暹という異母兄弟のいることがわかっている。そしてもう一人、異母妹もいたとされている。その根拠となるのが『小右記』長和3年6月17日の一文、「信経は前司の姪(をひ)也。又聟也」である。このとき式部の父為時は、紫式部の従兄でもあり、自身の婿でもある信経から、越後守の地位を譲られたのであった。つまり信経は為時の娘と結婚している。とすると、紫式部には夭折した姉のほかに、もう一人姉妹がいなくてはおかしい、というわけだ。
だが、この為時三女については、何もわかっていない。『尊卑分脈』にもその存在は記されていないし、紫式部も日記や家集の中で、この異母妹のことには一言も触れていない。
もっとも、同腹の姉も『尊卑分脈』には記されておらず、また式部は異腹の兄弟のことにも言及していないから、そこから妹の存在を疑うことはできない。ただ、この三女が信経の結婚相手としてのみ存在させられているというのなら、それはどうもおかしいように思われる。
たとえば、紫式部自身の婿というのはどうだろうか。宣孝と死別した式部の喪が明けた長保4年以降、宮仕えするまでの間に、あまりおおっぴらにではないが、式部が再婚した可能性もないではない。当時は派手に結婚式を挙げるわけでもないから、なんとなく婿となった、というような状態もままあったと思われるからだ。
ただこの想像も、紫式部ほどの人が再婚すればどこかに記録されているはずだと考えると、分が悪い。それに、宣孝の死後、『源氏物語』の執筆に打ち込む式部に再婚を考える余裕があったかどうか。また、結婚して幾年もたたぬうちに宮仕えするのも、ましてや道長に局の戸を叩かれて、そのことを日記に書くというのも、考えにくい。
ならば、式部の同腹の姉というのはどうであろうか。姉は夭折とは言え、24、5歳くらいまでは生きていたらしいので、結婚していた可能性もある。信経が相手でも、何ら不思議ではない。安和2(969)年生まれの信経と、姉はほぼ同い年で似合いの組み合わせである。岡一男の説によれば、信経と為時三女との結婚は寛弘七年ごろとあるが、そうすると信経は42歳、為時三女は36歳で、いい年をした二人が結婚(!)ということになり、このほうが不自然だ(しかしこれも、菅原孝標女のように新郎39歳、新婦33歳という例もあるので一概には言えないのだが)。
難点を言えば、姉の死から上記『小右記』の日付までの隔たりが約20年もあることだ。信経もおそらく別の女と結婚して、どこかの婿になっているという状況で、はるか昔に死んでしまった娘の婿から、難関たる(しかし獲得すればオイシイ)国司の地位を譲られるということがあり得るかどうか。考えられるのは、信経も為時と同じ邸で育ち(あの名高い堤邸)、幼いころから為時にかわいがられていたというような事情があったということで、これなら納得できる行為ではある。
したがって、為時三女というのは、実は存在しなかったのではないか。存在したとしても、式部の姉の死後、為時三女が後妻となったというような事情があるのではないか、と思うのである。
ちなみに、岡一男は『古典と作家(昭和18)』では上の問題に触れているのだが、『源氏物語の基礎的研究(昭和41)』になると、信経が三女の婿なのは自明のこととしていて、式部や姉のことにはまったく言及していない。なぜなのだろうか?
参考文献:
古典と作家 岡一男 笠間書院 S18
源氏物語の基礎的研究 岡一男 東京堂出版 S41 |