藤原惟規

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事跡:
 天延2(974)年ごろ、出生
 
寛弘元(1004)年1月11日、少内記
            3月4日、位記作成を命ぜられる
            5月13日、国用位記を作成
 寛弘4(1007)年1月13日、兵部丞兼六位蔵人
            7月12日、兵部丞
            7月15日、止観玄義文句三十巻の外題を書き奉るべき由の勅を行成に伝う
 寛弘5(1008)年7月17日、兵部丞、勅使として中宮御見舞
            12月15日、蔵人、御仏名に奉仕
 寛弘6(1009)年ごろ、式部丞に移る?
 寛弘7(1010)年1月8日、行成の参内を奏上す
            6月19日、行成下賜の続色帋六巻に楽府・後撰集など書いたことを奏上            10月4日〜27日、下用衛門府粮伝達に活躍

 寛弘8(1011)年、秋、従五位下に補され父為時の越後赴任に同行するも路次で発病
             任地に到着後まもなく没?

 文章生出身。
 家集に『惟規集』がある。

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聡明な姉と凡庸な弟?

少年のころ、惟規は父為時について漢籍を学んだ。しかし、なかなか思うように覚えられないで、暗誦してもすぐつかえてしまう。それを横で見ていた紫式部はすらすらと暗誦してみせ、父に男だったらと残念がられたほどだった……あまりにも有名な『紫式部日記』の一節である。
 紫式部と惟規、どちらが年上かはっきりしないが、学説では姉と弟というのが優勢のようである。父に失望された上に、姉の得意満面な顔を見るのは辛いが、まだしも年下の弟なら救いがある。自分もその年になれば、それくらいできるのだ、と思えるからだ。これが兄であったなら、面目は丸つぶれである。妹に頭が上がらない、それこそ誇りを傷つけられる出来事になるだろう。紫式部を憎んでも不思議はない。日記でみるところ、式部との仲はよいようなので、弟とみるべきだろう。『源氏物語』の空蝉の弟小君や、浮舟の弟の描写なども考慮に入れると、やはり惟規は弟ではないだろうかと考えたくなる。
 しかし、こんな聡明な姉がいると、弟というのは萎縮してしまうものなのかもしれない。後年、蔵人となった惟規は仕事の上でいくつか失敗をしている。また、家集の贈答歌を見ても、送る女に対する媚びのようなものが見えて、どうも覇気がないと言うか、剛気さが感じられない。持って生まれた性格もあるだろうが、しっかりと自分を見据え、周りに流されることのない紫式部の存在は、凡庸な惟規には大きすぎ、かえって気弱な面を増長させてしまったのではないだろうか。『源氏物語』が宮中で評判になっていることを知ったとき、「姉上ならやりそうなことだな」と呟く惟規の姿が想像できてしまう。

恋人は斎院中将

惟規には、名前のわかっている恋人が一人いる。斎院中将、または大斎院中将と呼ばれている人で、斎院長官源為理女である。その名のごとく、斎院中将は賀茂の大斎院と称された村上天皇の第十皇女、選子内親王に仕えていた。大斎院は天延3(975)年から50年以上も斎院であった人で、大斎院とその女房たちの作るサロンは当時の人々にすこぶる風流だという評判をとっていた。紫式部が『紫式部日記』の中で、このサロンを中傷し、自分が仕える中宮彰子のサロンを弁護するくだりがあるが、世間では、大斎院のサロンのほうに軍配が上がっていたのだろう。
  『十訓抄』や『今昔物語集』には、惟規が斎院中将のもとに夜な夜な通い、ある夜それを警護の者に見とがめられた説話が残っている。どちらも惟規が蔵人のときのこととある。惟規が蔵人であったのは寛弘4〜7年だから、その間のこととなる。斎院中将も惟規本人に対しては満更でもなかったようで、家集の恋歌にも返歌をしている。ただし、紫式部の弟というのは、斎院中将にしてみればあまりありがたくない繋がりだろう。「あの有名な紫式部が姉上だなんて、何だかうっとうしいわ。変な歌でも詠もうものなら、笑い者にされそうだわ」と思っていたに違いない。現に惟規は斎院中将の手紙を姉に見せている(40歳近くにもなって自分宛の恋文を姉に見せるほうもどうかしているが)。斎院中将はそのようなこともあると予測して、かなり気合いを入れて歌を作り、文を書いていたのではないだろうか。
 惟規は、この恋にはかなり真剣だったらしい。寛弘8年、為時の越後赴任に同行はするものの、道中で病に倒れ、現地に着いてほどなく亡くなった。そのとき、斎院中将あての和歌を詠んでいる。都を離れるくらいだから、二人の仲はうまくいっていなかったのかもしれない。惟規には紀伊守貞職という男子があるが、この人の母親は藤原貞仲女である。貞仲は大学寮で知り合った人らしく、文章生としては十年余り先輩だったのではないかと思われる。その娘は惟規よりかなり年下だった可能性がある。家集に「わかきひとを、おやのたのめければ、わづらふころ」という詞書を持つ歌がある。この若き人というのが貞仲女かもしれない。歌には若葉という言葉が使われており、これが子の貞職を指しているとすれば、なおさらである。貞仲は惟規の死後も生存が確認できる。とすると、斎院中将との噂を、貞仲は苦々しく思っていただろうか。

参考文献:
 惟規集 岩波文庫 南波浩 
 十訓抄

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