藤原賢子(大弐三位)

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事跡:
 長保2(1000)年ごろ、出生
 長保3(1001)年4月25日、父宣孝と死別
 長和3(1014)年ごろ、皇太后宮(上東門院)に越後弁の召名で出仕し頼宗と知り合う
 寛仁4(1020)年ごろ、頭弁藤原定頼(公任一男)・頭中将源朝任と恋愛
 万寿元(1024)年ごろ、左衛門督藤原兼隆(道兼二男)と恋愛
 万寿2(1025)年8月3日、道長の娘嬉子、親仁親王(後冷泉天皇)を出産
                  賢子、この年出産し御乳母に任ず
 万寿3(1026)年8月29日、道長六男長家室(藤原斉信女)没、賢子弔歌を贈る
 長元元(1028)年以降、高階成章と知り合い結婚
 長元4(1031)年9月25日、上東門院彰子住吉・石清水御幸に供奉
 長暦2(1038)年、高階成章との間に為家を出産?
 寛徳2(1045)年、典侍
 永承5(1050)年6月5日、祐子内親王家歌合に出詠
 天喜2(1054)年、成章、太宰大弐になる
 康平元(1058)年、成章、没
 治暦2(1066)年、皇后宮歌合
 承暦2(1078)年、内裏後番歌合に「為家母(賢子?)」出詠
 永保2(1082)年、為家、母(賢子?)の所労により臨時祭使いを辞す
 まもなく没? 

ここに着目!

やっぱり「恋愛と結婚の相手は別」?

 賢子は紫式部の娘ではあるが、それにしてはまったく違った人生を歩んでいる。
 少女時代から彰子のもとに出仕し、幾人もの公達と恋愛をし、子どもを生んだときにはちょうど道長の孫も生まれており、その乳母の座をちゃっかり射止めている。東宮、ひいては天皇になる可能性のある皇子が生まれると、乳母になりたがる者は大勢いて、けっこう難関の役目らしいのに、である。そして若いとは言えぬ年になるころには、上流貴族の御曹司たちとの恋愛遊戯に終止符を打ち、さっさと受領階級の男と結婚する。その相手は「欲大弐」と称されるほどの人で、さぞかし金持ちだったに違いない。お世話した赤ん坊は後に帝位を踏み(後冷泉天皇)、賢子は典侍になり、従三位に叙せられる。恋愛・結婚と言い、得た地位と言い、宮仕えする女房なら、こんなことをしたい、こんな風になりたいと思うようなことを、賢子はすべてしおおせているのだ。どうも気質や資質は父の宣孝に似ていたようである。 
 もっとも、賢子のような受領階級の娘たちは、初めから、また自ら求めて受領階級の男の妻におさまりたいと思っているわけではなかった。できればより上流の公達の妻になりたい、その可能性のあるのは女房勤めである、と思っている者も多かっただろう。賢子には恋愛の相手が5人も判明していて、これは母の紫式部が夫の宣孝ひとりなのに比べると雲泥の差という感じがする。家集『大弐三位集』や勅撰集の彼女に関する和歌から考察すると、その恋愛相手と時期は以下のようになる。

賢子16歳ごろ 藤原頼宗(道長二男 993〜)、長和3(1014)年に22歳で参議、
                             長和5(1016)年に右衛門督
賢子21歳ごろ 源朝任(源時中男 989〜1034)、頭中将、治安3(1023)年に35歳で参議 
賢子23歳ごろ 藤原定頼(公任一男 995〜1045)、頭弁、寛仁4(1020)年に29歳で参議
賢子26歳ごろ 藤原兼隆(道兼二男 985〜)、左衛門督、寛弘5(1008)年に24歳で参議
賢子29歳ごろ 高階成章(高階業遠男 990〜1058)、東宮権大進、65歳で太宰大弐 
 
 成章以外はみな公卿になっている。それも道長に近しい者ばかりで昇進も早く、恵まれた環境にあって、当然のことながら正室は身分の高い人ばかり。
 のみならず、彼ら上流貴族の御曹司らは賢子のことを宮中にありがちな恋愛遊戯の相手としか見ていなかったようである。定頼などは、賢子とほとんど同年代の小式部内侍(和泉式部の娘)や相模とも浮き名を流し、小式部内侍はその母に似て恋多き女であり、頼宗や教通(道長五男)とも交渉を持った。狭い宮中でたらい回しに恋愛が成立してしまうのだから、その一つ一つが長続きせず、結婚までいかないのもうなずける。現に後拾遺集には「中納言定頼かれがれになり侍りにけるに」詠んだ歌が残っている。
 そこへもっていくと、成章は明らかに違う。藤原伊周が道長との政争に敗れて配流の憂き目を見たのは賢子の生まれる前のことである。成章の大伯父成忠を初め、高階一族が一時は栄華を誇り、そして突然凋落したことも、賢子の中には実感としてはなかったろう。だが成章は7歳だった。幼少のころならともかく、長ずるに従い一族の衰退を目の当たりにすることになる。それでも成忠の直系の子孫ではなかったためか、昇進は一受領としてはさほど悪くはない。ただ、安穏と恋愛遊戯に明け暮れていた御曹司らとは一線を画するものがあるのではないか。
 そういう思いで『大弐三位集』を見ると、定頼らとの贈答歌は恋の歌でもそれほど心がこもっている感じがしないのに対し、相手のわからないいくつかの贈答歌は、妙に男のほうが熱心な様子で、これはひょっとして成章を相手にしたものではないかと考えたくなる。詞書に「返事いたう乞う人に」「かたらふ人の、をくれては、えながらふまじ(あなたに死に遅れては、生き長らえられそうにない)とあるに」というのがあって、真情のあふれる歌を贈ってきたのであろう。賢子のほうはさほど熱心でなさそうなところをみると、成章はそれまでの恋愛の相手に比べて地味なのが気に入らなかったのかもしれない。それでも真剣な求愛にほだされたというのが、真実に近いのではないか。
 成章は勅撰集に1首だけ歌を採られている。
「人の局を忍びてたたきけるに、たぞととひ侍りければよみ侍りける
 磯なるる 人はあまたに 聞こゆるを たがなのりそを 刈りてこたへん」
 あなたは大勢の男を相手にしていて、局の戸を叩く人が誰かと聞かなくてはならないのだね、というあたり、この歌を贈られたのはまさに賢子ではないかという気がする。あの紫式部の一人娘を相手にするのも、なかなか大変だったご様子、成章もよくやった、と言うべきか。賢子も成章と連れ添って、それなりに幸福な後半生を送ったようである。
 太宰大弐と言えば、『源氏物語』「蓬生」の巻には、太宰大弐の妻となった末摘花のおばが描かれている。もとは皇族の出身らしい人が、落ちぶれているのは目も当てられないと、紫式部はこのおばを貶した書き方をしている。奇しくもその太宰大弐の妻になった賢子は、それをどう感じていたのだろうか。

参考文献:
 大弐三位集 岩波文庫 南波浩 
 国文学  S34/3 特集 平安女流歌人の探求「紫式部と大弐三位」  関根慶子
 国文学 解釈と鑑賞 51-11 S61/11 特集王朝の女流文学者たち 「紫式部と大弐三位−文学史論の試み」 野村精一

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