定暹

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事跡:
 天元3(980)年ごろ、出生
 ?            叡山にて修行する
 長保4(1002)年10月22日、詮子追善八講において、請僧六十口のうち聴衆二十口の一人として奉仕
 寛弘3(1006)年5月24日以降、
    (寛弘5年3月26日までに)教静大阿闍梨より灌頂を受け阿闍梨となる
 寛弘8(1011)年6月25日、一条天皇御大葬に御前僧二十口の一人として参列
                   この後、律師に任ぜられ三井寺の林泉坊に居住
 長和5(1016)年4月29日、三井寺にて出家する為時の剃髪の介添えをする?                   没年不明。 
 
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「禅師の君」は定暹?

 戦後まもなくの研究書ならともかく、惟規が弟だという説は、兄説に比べるとやや優勢になっているような気がする。特にここ数年の間に出版された本は学術書でも小説でも、弟とするものが多い。
 ところが同じ男兄弟でも、惟通や定暹は問題にされない。それは異腹のせいであり、また『紫式部集』や『紫式部日記』にまったく登場しないことから、式部とは交流がなかったのだろうと決めつけられているかららしい。
 為時の息子たちの中で、唯一出家したのが定暹である。惟規の場合と同じく、式部からみて兄か弟か判別する材料に乏しい。手掛かりは、定暹が寛弘5(1006)年ごろまでに阿闍梨、その後長和5(1016)年ごろまでに律師となっていることである。岡一男は定暹の生年は天元3年(980)ごろではないか、としながらも、それでは阿闍梨や律師となるには若すぎるので、もう少し生年を早めてもよいのではないかと言う。紫式部の生年も不明なので何とも言えないが、場合によっては定暹が異腹の兄になる可能性は高い。もっとも、長幼に関係なく、紫式部の母より身分低い女に通っていて、その女が子を生んだなら、出家させることも考えられるので、出家したこと自体は年齢を確定する根拠にはならないだろう。
 ところがもう一つ、『源氏物語』の中にも手掛かりがあるように思われる。「蓬生」の巻に出てくる、末摘花の兄、禅師の君がそれであるが、彼が初登場する一文は、「ただ御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふときはさしのぞきたまへど、それも世になき古めき人にて、同じき法師といふ中にも、たづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草蓬だに、かき払はむものとも思ひ寄りたまはず」とある。
 時たま末摘花のもとを訪れはするが、源氏にうち捨てられたままの末摘花の惨状をどうにかしようということに思い至りさえしない浮世離れした人である、という。「末摘花」の巻には出てこなかった禅師の君が、前々からよく宮邸に出入りしていたような書きぶりは不審と言えば不審だが、これは定暹をモデルにしていたのではないかという岡一男の論は当たっていると思われる。
 禅師の君は、この後、光源氏が桐壺院の御料の御八講を行ったのに招請され、その帰りに末摘花のもとに立ち寄って御八講の有様を語り、さっさと帰ってしまったという場面に出てくるのみである。それきり物語に登場もしない。にもかかわらず、ご丁寧に「言少なに、世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こえあはせたまはず」という不思議な兄妹仲までを語っている。先の禅師の君の描写といい、物語の筋とほとんど関わりのない人物でありながら、ここまでリアルに語るというのは、不必要とも不自然とも言える。思うに、式部は予定では禅師の君を物語にもう少し絡ませようと思って書き始めたのではないか。ちょうど定暹というモデルもいることであるし、筆は進む。が、結局さしたる出番もないままに蓬生の巻が終わってしまったというところだろう。
 長保4(1002)年の詮子追善八講に参加した定暹は、あるいは為時や式部の住む堤邸を訪れたかもしれない。幼いころ、定暹は修行中の身でまったく会う機会もなかったが、このころからは式部も話くらいはするようになったであろう。禅師の君が定暹をモデルにしているとすれば、定暹は式部の兄ではないか。そして、寡黙な人であり、僧侶の中でも浮世離れしたほうであるという性格は、為時にも似ている。だが定暹は、式部のことを気に懸けていないというのではなかった。幼子を抱えて未亡人となってしまった異母妹を雄弁に慰めることはしなかったが、定暹自身は、機会があって京にでてくるようなときは、顔を出すことくらいのことはしようと思っていたのかもしれない。式部のほうでも、そんな心の裡を感じ取って、物語の中に兄の姿をとどめておこうと考えたのではないか。そうすると、禅師の君が物語の中で活躍しないのに、人柄だけは妙に印象的なのも、うなずけるであろう。

参考文献:
 古典における伝統と葛藤 岡一男 笠間書院 S53/1  「第V部 紫式部新考」定暹の項

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