年号 |
西暦 |
推定年齢 |
紫式部事蹟 |
家族の事蹟 |
周辺の事跡 |
安和元 |
968 |
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11月17日、為時、播磨権少掾 |
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二 |
969 |
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従兄信経、出生 |
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天禄元 |
970 |
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為時、為信女と結婚? |
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二 |
971 |
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姉、出生? |
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三 |
972 |
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天延元 |
973 |
1 |
出生?(諸説あり) |
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二 |
974 |
2 |
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惟規、出生? |
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三 |
975 |
3 |
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母為信女、没?
異母妹(信経室)、出生? |
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貞元元 |
976 |
4 |
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異母弟惟通、出生? |
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二 |
977 |
5 |
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3月28日、為時、東宮(花山天皇)の読書始に副侍読として列席 |
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天元元 |
978 |
6 |
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8月、兼家女詮子、入内し女御
10月、兼家、右大臣 |
二 |
979 |
7 |
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三 |
980 |
8 |
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異母弟定暹、出生? |
6月、懐仁親王(一条天皇)誕生 |
四 |
981 |
9 |
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五 |
982 |
10 |
このころ、父に漢籍を学ぶ |
宣孝、六位蔵人で左衛門尉兼任 |
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永観元 |
983 |
11 |
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二 |
984 |
12 |
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為時、六位蔵人で式部丞を兼任 |
10月、花山天皇、即位 |
寛和元 |
985 |
13 |
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春、為時、道兼邸の残花宴にて作歌
7月18日、宣孝、壬生社に使して失策し殿上の簡を削られる
10月、為時、大嘗会の御禊に宣孝らと奉仕 |
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二 |
986 |
14 |
少女時代、物語・漢籍・日記・歌集・漢詩文などの書籍を読破 |
2月、為時、式部大丞
春、為時、具平親王邸で惟成・保胤らと宴を賜う
6月、為時、花山天皇退位で官を辞す |
6月、花山天皇、退位
一条天皇、即位 |
永延元 |
987 |
15 |
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1月8日、外祖父為信、出家 |
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二 |
988 |
16 |
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道長女彰子、出生 |
永祚元 |
989 |
17 |
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正暦元 |
990 |
18 |
このころ、短編の物語などの執筆開始? |
3月、宣孝、御獄詣
8月、宣孝、筑前守 |
1月、一条天皇、元服
5月、道隆、摂政関白
10月、定子、中宮 |
二 |
991 |
19 |
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為時、大内記 |
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三 |
992 |
20 |
このころ、具平親王邸に出仕? |
このころ、姉、没? |
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四 |
993 |
21 |
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1月、為時、宮中詩宴に出席
為時、外記 |
冬、清少納言、出仕 |
五 |
994 |
22 |
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長徳元 |
995 |
23 |
夏ごろ、朝顔の贈答歌を詠作?
秋、地方に下る幼友達と離別の歌を贈答?
この年より宣孝に求婚される? |
春、宣孝、帰京 |
4月、道隆、没
5月、道兼、没
5月、蜻蛉日記作者、没
6月、道長、右大臣
この年、麻疹流行 |
二 |
996 |
24 |
3月4日、上巳の日、賀茂河原にて祓えをし詠歌?
夏、父と共に越前に下向し旅の途次詠歌
姉君と呼んでいた親友と歌を贈答 |
1月、為時、越前守。
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4月、伊周・隆家、左遷
7月、道長、左大臣
9月、宋人70余人、若狭へ来る |
三 |
997 |
25 |
1月、宣孝に文
晩秋、単身で帰京?旅の途次に詠歌
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宣孝、式部に求婚? |
4月、伊周・隆家、召還 |
四 |
998 |
26 |
晩秋、宣孝と結婚? |
1月、宣孝、右衛門権佐
8月、宣孝、山城守
11月、宣孝、賀茂臨時祭に舞人 |
この年、疱瘡流行 |
長保元 |
999 |
27 |
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11月11日、宣孝、神楽人長
11月末、宣孝、宇佐神宮勅使として西下 |
11月、彰子、入内し女御。
11月、中宮定子、第一皇子敦康親王出産 |
二 |
1000 |
28 |
賢子、出生? |
2月、宣孝、宇佐神宮より帰京
4月、宣孝、平野臨時祭の勅使
7月、宣孝、相撲節会列席 |
2月、彰子、中宮冊立
12月、皇后定子、崩御 |
三 |
1001 |
29 |
この年、『源氏物語』執筆開始? |
春、為時、越前より帰京
4月25日、宣孝、没
10月、為時、東三条院詮子四十賀の屏風歌を奉る |
春夏、疫病流行。
12月、東三条院詮子、崩去 |
四 |
1002 |
30 |
1月、男、再び言い寄る
春、宣孝を追想する詠歌
5月、宣孝の喪が明ける
『源氏物語』執筆中?
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10月、弟定暹、東三条院追善八講に奉仕 |
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五 |
1003 |
31 |
『源氏物語』執筆中? |
5月、為時、御堂七番歌合に出席 |
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寛弘元 |
1004 |
32 |
『源氏物語』執筆中?
物語の評判が道長の耳に入る? |
惟規、少内記 |
5月、花山院、道長邸行幸 |
二 |
1005 |
33 |
12月29日、初出仕? |
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4月、拾遺集成立
11月、道長四十賀
内裏焼亡。東三条邸へ遷幸 |
三 |
1006 |
34 |
1月、退出
1月10日、春の歌を所望され家から献詠
4月、再出仕
9月8日〜28日、中宮彰子行啓に供奉。清少納言を見る?
9月28日、中宮の内裏還啓後、里に退出 |
3月4日、為時、東三条邸の花宴にて作詩。 |
御所、一条院へ移る
7月、道長、法性寺の五大堂建立 |
四 |
1007 |
35 |
1月、私邸より中宮に献歌
4月、奈良から献上される桜の取り入れ役を伊勢大輔に譲る
4月19日、賀茂祭使・頼宗の挿頭に歌を書く
夏、中宮に『白氏文集』の「楽府」進講
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1月、兵部丞惟規、六位蔵人
4月26日、為時、内裏密宴の作文に出席
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五 |
1008 |
36 |
1月3日、里にて詠歌。
5月5日、土御門三十講で中宮に従う
7月、中宮に従い土御門邸滞在中、道長と女郎花の歌を贈答
『紫式部日記』執筆開始
9月9日、道長室倫子より菊の綿を賜る
10月16日、行幸に奉仕
11月1日、敦成親王の五十日の祝いで詠歌。公任に声をかけられる
11月10日ごろ、『源氏物語』冊子作り
11月22日、五節舞で左京に歌を贈る
11月ごろ、道長、『源氏物語』の草稿を持ち去る
12月中旬、退出
12月29日、帰参し初出仕を回想
12月30日、追儺。内裏の引き剥ぎ事件を目撃 |
3月14日、為時、正四位下左少弁
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2月、花山院崩御。
4月13日、中宮彰子、土御門邸に退出
5月1日、土御門邸法華三十講開始
6月24日、中宮彰子、内裏還啓
7月16日、中宮彰子、出産のため土御門殿へ退出
8月26日、中宮彰子、薫物を調合
9月11日、中宮彰子、第二皇子敦成親王出産。
9月15日、若宮産養
10月16日、一条天皇、土御門邸へ行幸。
11月1日、敦成親王、五十日の祝い。
11月17日、中宮、内裏還啓
11月28日、賀茂の臨時祭
12月20日、敦成親王、百日の祝い |
六 |
1009 |
37 |
1月3日、敦成親王の昇殿と女房らの様子を日記に記す
6月21日、中宮土御門邸内御堂山系に供奉?
夏、道長と梅の実の歌を贈答
五節のころ、弁宰相と歌を贈答
この年、『紫式部日記』前半執筆開始?
このころ、『源氏物語』完成?
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7月7日、為時、庚申序を作文 |
1月3日、敦成親王、戴餅
2月、中宮・若宮の呪詛事件発覚し伊周、参内停止
7月、具平親王、没
9月11日、中宮彰子、土御門邸内御堂へ詣でる
10月、一条内裏焼亡し天皇、枇杷殿へ遷幸
11月25日、第三皇子敦良親王誕生 |
七 |
1010 |
38 |
1月2日、土御門の中宮臨時客に奉仕
夏ごろ、『紫式部日記』編纂開始?
宇治十帖執筆? |
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1月15日、敦良親王、五十日の祝い。
11月、一条天皇、枇杷殿より一条院内裏へ遷幸 |
八 |
1011 |
39 |
10月、一条天皇崩御で枇杷殿へ移る中宮に従う際詠歌 |
2月1日、為時、越後守
秋頃、惟規、越後にて没 |
5月27日、一条天皇、譲位
6月13日、三条天皇、践祚。敦良親王、立坊
6月22日、一条天皇、崩御 |
長和元 |
1012 |
40 |
1月15日、司召のころ献詠 |
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2月14日、中宮彰子、皇太后
5月、彰子、枇杷殿で一条院追善八講を開催
6月、道長、病臥 |
二 |
1013 |
41 |
5月25日、資平が皇太后彰子を訪問する際、取次をする
7月27日、内裏相撲の節が雨で中止になり詠歌
9月下旬、宮仕えを辞すか
小少将の君没し、加賀少納言と歌を贈答 |
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三 |
1014 |
42 |
1月、父に歌を贈る
1月下旬、清水寺に参籠し伊勢大輔に会い歌を贈答
この年以降、1031年までの2月ごろ没?
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6月14日、為時、官を辞して帰京 |
1月20日ごろ、彰子、病臥
内裏焼亡 |
四 |
1015 |
43 |
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五 |
1016 |
44 |
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4月29日、為時、三井寺にて出家 |
1月、三条天皇、譲位
2月、後一条天皇、即位 |
寛仁元 |
1017 |
45 |
『紫式部集』完成? |
このころ、娘賢子、彰子のもとに出仕? |
5月、三条院、崩御
8月、敦良親王、立坊 |
二 |
1018 |
46 |
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1月、彰子、太皇太后 |
三 |
1019 |
47 |
1月5日、実資の彰子訪問を取り次ぐ? |
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3月、道長、出家 |