平安貴族”ダチ”事情

ホーム 上へ

其の一【行成と源俊賢】

すまじきものは宮仕えという。限られたポストを争って、出世競争・権力闘争を繰り返してきた平安王朝貴族にとって、自分の地位を脅かす者はすべて敵であった。兄弟でさえ、腹の中では何を考えているかわからないと疑わねばならないご時世、ましてや同じ年ごろで家柄も官位も似たり寄ったりの他人を、敵と言わずして何と言おう。
 だが平安時代の貴族たちにも、心を許す友を持っていた者があった。当時の物語や貴族の日記は、それを教えてくれる。今回は、藤原行成(
9721027)の『権記』から、行成の生涯の友人、源俊賢を取り上げ、二人の友情を探ってみたい。 

◎行成の生い立ち

藤原行成は天禄三(972)年、藤原義孝の長子として生まれた。父親は19歳という若さで少将であったが、祖父は太政大臣藤原伊尹であった。行成は、順調にいけば末は大臣にもなることのできる、恵まれた家に生まれたのである。
 しかし、伊尹は行成が生まれた年に亡くなった。父の義孝は、まだ伊尹の後継者となるだけの実力はない。伊尹の後を襲ったのは、弟の兼通であった。その下には道長の父である兼家もいた。伊尹の後裔は、あっと言う間に権勢の座から滑り落ちてしまったのである。

 三年後には、義孝も亡くなった。この二つのことは、行成の人生を決定してしまったようである。摂関の地位は望めず、親の七光りも当てにはできない、ほかの貴族たちと比べると重いハンデを背負ってしまったことになる。
 行成の不運はそれだけでは終わらなかった。

 永観二(986)年、15歳で昇殿を許された行成に、強力な後見が現れた。藤原義懐、義孝の弟で行成には叔父に当たる。即位した花山天皇を支え、一気に権中納言にまでなった叔父に、行成が明るい未来を期待していたとしても、不思議はない。ところが花山天皇は2年ばかりで退位の憂き目に遭い、義懐は出家。一条天皇が即位したかと思うと、もう兼家一家の世になっていた。
 行成はこのとき、所詮逃れられない貴族社会の中で、自分の才覚だけで生きていかねばならないことを悟ったに違いない。ただ、このことは行成に微妙な影を落としたには違いないのだが、それで卑屈になったのではないらしい。むしろ、事実をあるがまま真正面から受け止めて、自分の信条として取り込んでしまったのは、行成の持って生まれた性格のせいだろう。

 官僚としては、その後10年ほど沈淪していたようである。14歳で侍従となってから、24歳までの間に就いた官職と言えば、左兵衛権佐だけである。もっとも位の方は従四位下にまで上がっていたが、これでは宮中で目立つというわけにはいかなかったろう。不遇とさえ言える。加えて24歳のとき、行成は母と母方の祖父を失った。唯一の後盾であった二人まで奪われて、行成の不運はここに極まれり、という感がある。
 だが、この24歳は、行成の運命を変えた年であった。
 大抜擢が待っていたからである。

  恩人・源俊賢

『権記』の現存記事は、正暦二(991)年から始まっており、行成はおそらくこのころから日記を書き始めたものと思われる。冒頭の2年ほどは破損のためか、筆が慣れていないためか、記事も少ない。まともな記事が見られるのは、正暦四(993)年からである。
 
二月二十二日、敦道親王(のちの和泉式部の恋の相手)の元服の式に出席したという記事の中に、俊賢という名がさっそく現れる。二十八日には、宮中で殿上賭弓定が行われた。40人の侍臣が前後に分かれて弓を競うもので、行成は当日、俊賢率いる後方組に加わって、筆録を担当している。ここまでは、単なる上司と部下のようにも見える二人である。
 ところが七月十七日、俊賢は行成に「一夜於山為汝吉想(比叡山で君のために吉夢を見たよ)」と言った。かなり親しい様子である。俊賢と行成がいつ出会い、どのように親しくなったかは、まったくわからない。だが、出仕してからこの記事を書いた22歳までの間に、俊賢が単なる上司から友人になったことは間違いない。
 そして、長徳元(995)年八月二十九日、行成は24歳で蔵人頭に抜擢されるのである。それは前日の除目において、参議に昇進した俊賢の空席であった。蔵人頭と言えば、天皇と大臣や公卿の間を駆けずり回り、互いの意志伝達から雑用まで、幅広い職務をもつ仕事である。激務だが見栄えのするこの花形の官職に、行成が突然選ばれたわけは何なのか。『権記』には、そのあたりの事情は何も書かれていない。「大鏡」には、俊賢が推挙したからだとある。前任には、後任の推薦権があったということになっている。俊賢が実際に推挙したかどうか、また推挙したとしても天皇がその意見を採用したかどうか、真実は確かめようがない。だが、俊賢が行成を推挙しても不思議はないだろうと周囲から思われるくらい、二人は仲がよかったことは確かである。このとき、俊賢は36歳。12歳も年下の行成のどこに、俊賢は惹かれたのか。
 考えられるのは、彼らの境遇の相似だろう。
 俊賢は、かの源高明の息子である。高明が安和の変で断罪され、太宰府に流されたことは有名である。が、高明が罪人として捕らえられたその瞬間、検非違使にむしゃぶりついていった10歳の少年がいたことを、知る人は少ないのではないだろうか。それが俊賢である。高明は後年、許されて帰京はできたが、隠棲を余儀なくされた。俊賢の官僚としての人生に、何の後押しもできないばかりか、かえって汚点を残したようなものであった。行成とも、どこか共通するところがある。俊賢にとって、行成のハンデは他人事ではなかったのだ。

 むろん、行成の実務官僚としての能力を高く評価していたということもあろう。実務能力の有無は、行事の采配や、書類を書き、分類するといった事務的な仕事の処理の仕方を観察していればわかることである。行成は後の仕事ぶりからして、要領よく仕事をこなす人だったようだ。俊賢はそれに気付いていたのである。
 後年、寛弘六
(1009)年の除目で権中納言になった行成は、すでに権中納言であった俊賢の席次を越えてしまった。同じ位官を持つ者同士の場合、先に現在の位に就いたほうが席次が上であるため、行成は俊賢を飛び越えることになったのである。しかし、行成は俊賢の上座には決して座らなかったという。行成は、俊賢との長きにわたる友情を思い、また官僚としても正当に評価してくれたことが忘れられなかったのだろう。
 権力闘争の狭間に隠れた逸話。何だか救われる気がするのは、ひとえに行成の人徳と言うべきか。

 

其の二【行成と藤原成房・源成信】

次に行成の年下の友人、藤原成房と源成信に焦点を当ててみたい。  

◎三者の生い立ち

三人の友情を考える前に、まず彼らはどんな境遇に生まれ育ったのか。
 行成は藤原義孝を父に持ち、天禄三
(972)年に生まれた。この年、義孝の父、摂政藤原伊尹(道長などの父兼家の兄にあたる)が四十九歳で亡くなり、父義孝も行成が三歳のときに亡くなった。行成は外祖父源保光に養われて成人したものと思われる。
 24歳のとき、源俊賢の推挙により蔵人頭に任官する。一条天皇や藤原道長の信頼を得た後は順調に出世し、正二位、権大納言にまで累進した。
 現代では書道の分野で著名だが、当時も能筆と評価され、多くの書や額を残している。

 藤原成房は天元五(982)年の生まれ。父は義孝の弟、藤原義懐。義懐は花山天皇の即位とともに28歳の若さで中納言となり、政を一手に引き受けた。わずか2年で藤原兼家らの陰謀により天皇が出家。義懐も将来を悲観して共に出家したという逸話は有名。このとき成房はまだ五歳。行成と同じく後ろ盾のない成房は、成人後の出世も遅かった。長保四(1002)年二月三日、出家。享年は定かではない。
 源成信は天元二
(979)年生まれ。父は村上天皇の皇子、致平親王。母が源雅信女(道長の妻倫子の妹)だったこともあって、道長の猶子となりかわいがられていた。長保三(1001)年二月四日、右近衛権中将のとき、右大臣藤原顕光の子、左近少将重家と共に三井寺にて出家。かなり長命で、長久年間(10401043)までは生存していたらしい。

◎俗世と出家・遁世と

成房は幼くして父に出家され、寂しい幼年期を過ごしたのではないだろうか。成房が出家したときには外祖父為雅は亡くなっているので、あるいは母一人子一人という感じだったかもしれない。行成にとって、そんな成房は庇護すべき弟のような存在であっただろう。十歳も年下の成房は、何かにつけて従兄の行成を頼りにしたであろうし(実は行成は成房の出家後、成房の弟の伊成の面倒も見ている)、行成も同じ伊尹系の一族として、何とか成房を政界へ押し出したい気持ちもあったに違いない。
 が、成房は行成ほどの芯の強さに欠けていた。父の義懐が出家して住んでいた叡山横川の飯室へ度々訪れ、出家したいと訴えていたらしい。そして長保二
(1001)年の十二月十八日、成房は出家する覚悟を決めて飯室へ向かう。それを知った行成は後を追う。義懐に思い留まるよう説得された成房は、いったん行成と共に帰京した。
 長保二(1001)年と言えば、道長が長女彰子を一条天皇の中宮に冊立し、先に中宮であった定子は皇后となり、先例のない一帝二后の状態が出現していた時期である。だが十二月十六日に定子が亡くなったため、道長はこの後、独裁体制を強めることになる。成房が定子の死の直後に出家しようと思ったことは、この政治情勢と無縁ではなかろう。十八日、成房は行成に「世の中をはかなきものと知りながらいかにせましと何か嘆かん」という和歌を贈り(このことは『栄花物語』に出ている)、世間は無常だと語っており、発心の直接の契機になったことは間違いない。
 ただ一方で、上層貴族の間では個人差はあれ、出家遁世への憧憬があったことは確かである。高貴の家柄に生まれても、出世が思うに任せない者も多い。また昨日は栄華を誇った人が、今日は零落するという例を目の当たりにすると、感じやすい青年貴族たちはこの世の無常を突きつけられ、やりきれなくなるらしい。俗世の無常を語り合い、厭世の心を抱くというのが、当時の若い公達の間で流行したスタイルであった。日記には、行成が成房や成信と同車して飯室へ訪ねたり、夜どおし語り合ったりしたという記事が散見する。
 そんな風潮の中、発心を実行に移してしまった若者がいた。長保三(1001)年二月四日、源成信と藤原重家が三井寺で出家した、という知らせが京にもたらされた。道長も、顕光も驚天動地といった有様であった。
 ひきかえ、行成は成信本人から、その決意を告げられていたようである。二月三日の『権記』には、成信が出家する夢を見た行成が、成信にその話をしたと書かれている。成信は「正夢だよ」と答えており、行成は友の出家の日が近いことに気付いたはずである。
 成房のときも同様だが、行成は友人のそうした行動について、引き留めるべきか応援すべきか、少なからず迷っていたらしい。当時は、人が健気にも発心したものをむやみに水を差すと罪業が深いと考えられていた。が、親しい友人が俗世を離れていくことに対する哀惜や、同じような境遇にある者同士、励まし合いながら辛い宮仕えを乗り切っていこうではないかという連帯感が、行成の中では常に勝っていた。たとえば長保三年三月、自身に中将兼任の内示があったとき、行成はそれを成房に譲っている。また、彰子入内に際し、行賞が予定されていた成信が外されそうになったときも、行成は一条帝に訴えて叙位の勅許を得ている。現世で共に頑張ろう、と思っていたからこその行動である。
 現に行成は生涯出家しなかった人であった。決して信心を怠っていたというのではなく、むしろ仏事・仏道修行を重んじる人だったにもかかわらず、である。祖父伊尹から伝領した桃園邸の跡地に世尊寺を建立し、日ごろの法要などにもたいへん熱心であった。

 察するに、行成は出家は現世からの逃避、後ろ向きで消極的な行為だと思っていたのではないか。友人たちへの処し方に、はからずも行成の本心が見える。
 しかし、成信の出家からちょうど一年後の長保四年二月三日、ついに成房が出家した。日記には成房が素懐を遂げたと記してあるだけだが、そこに行成の苦悩が含まれているように思えてならない。宿願を果たした従弟にエールを送りたい気持ちと、それ以上に沸き上がる慨嘆の板挟みになったことだろう。もっと何か、してやれることがあったのではないか、という後悔もあったかもしれない。

 とは言え、行成は友人たちと無常について語り合いながらも、現実には蔵人頭を六年にわたり精勤した。一条天皇にも道長にも信頼され、幾度辞表を提出しても却下されるほどであった。長保二年には参議となり、公卿の仲間入りを果たすまでになる。
 出家をしてしまった友人たちは、出世する行成を僻みの目で見なかったのだろうか。もし行成と成房、成信の友情が純粋なものであったとするなら、行成はおそらく心に傷のある人を受け入れてしまう懐の深さを持った人物だった、というほかはない。友が胸の裡を語り尽くす、その聞き役となり、ときには助言をする。口先だけではなく、現実に政界でも力添えをするというのは、なかなかできることではなかろう。出家はしたが、成房も成信も得難い友を持った。それは幸福と言ってよいのではないだろうか。