平安漫言

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2004年1月18日
 日本史愛好会を脱退したため、その記事を削除する。平安王朝時代が好き、という人は多いが、何か疑問点や課題を見つけ、それを掘り下げて研究や考察を加えていこうという意気込みのある人に出会い、平安王朝クラブを運営していくことができなかった。サークル活動において、何をやっても空回りで手ごたえがないというのは非常に辛い。
 ならば一人で地道にやるまでのこと。和歌六人党に続き、今度のテーマは漂泊の歌人能因法師。西行の崇敬したこの歌人の生涯を追ってみたいと思う。
2001年10月6日
 映画『陰陽師』を見る。話の筋はともかく、時代考証は気になる。元方や祐姫が出ているからには、村上天皇の御世には違いない。敦平親王とは、おそらく憲平親王(のちの冷泉天皇)のことで、親王が生まれたのは天暦4(950)年だから、舞台はこの年なのだろう。しかし、左大臣にはなっていないはずの師輔が左大臣、右大臣にはなっていない元方が右大臣とは。史実の左大臣、実頼はいったいどこへ? 元方が没したのは天暦7(953)年のことなのに……。右大弁の忠正って、誰? 第一、博雅が公卿よろしく左大臣などのそばに座るのは、どういうことなのか? こういう細かいことは気にしてはならない、というのが昨今の陰陽師、安倍晴明の本ではお約束のようになってしまっている。だったら、最初から登場人物も全部架空にしてしまえばよいのに。なまじ史実の人物と架空の人物を一緒に登場させるものだから、かえって気がそがれる。
 それ以上に残念だったのは、原作の持ち味の一つである季節の移ろいがまったく映画に反映されていないことである。晴明の家の庭には、今ならさしずめ萩や女郎花がきれいに咲いているはず、なのだが……。
2001年9月24日
 紫式部の家集を読み、その一首一首について考察していると、次第に式部の生身の体に近づいているような気がしてならない。歌を詠んだときの事情、それは細かく言えば詠んでいる季節や時間であったり、場所であったり、何をしているときで、式部の目の前にいるのは誰で、どんな気分のときか。式部は何歳で、贈答の相手はどんな人か。相手とはどんな関係で、なぜそう詠まねばならなかったのか。疑問は際限なく溢れてきて、始末に負えない。しかも、歌の解釈をする上で重要な疑問ほど、考えても考えても答えは出ない、という風になっているから、式部に近づいていると思っていても、実は独りよがりなだけで、当の紫式部は背後からこちらを見て、「わたしはそんなつもりで詠んだんじゃないわ、勝手なこと言って!」と怒っているかもしれない。だったら、少し姿を現して、歌の意味を教えてくれてもよさそうなものだが。
 予定では、半年くらいで完成するつもりであったのだが、未だ半分もできていない。紫式部でなくとも、どなたか「これはおかしいのじゃない?」とご指摘くださる方があればいいのに、と思うようになった。
 2001年3月5日 偏食は平安にあり
 バブル華やかなりしころは、食の流行と言えばグルメが定番だった。なのに今は健康志向のせいで、「○○を食べてきれいになる」とか、「××ダイエットは効く」といった何か特定の食品を食べて健康になろうというお手軽な考え方が幅を利かせている。
 本当に効果があるのかどうかは知らないが、テレビで取り上げられる予定のある食材は、小売店やスーパーで事前にチェックして大量に入荷させるというから、試してみる人の多いことは確かだろう。
 ところで、平安時代の貴族たちは一回の献立として、どんなものを食べていたのだろうか。
 承安二(1172)年一月二日、摂政家臨時客(摂関大臣家で親王公卿以下を饗応する儀式。招待はしないが客が集まる)で出されたご馳走のレシピが残っている。参加する人の身分によって献立にも多少差はあるが、おおまかに言って、主食の米飯のほか、魚介類の干物となます、それに付ける調味料、あとは果物と菓子しかない。
 試算してみると、公卿の場合で32皿(約3000kcal)、殿上人の場合で21皿(約2300kcal)だから、カロリーは一食にして成人男性の一日の必要摂取量、またはそれを越えている。まあ、いつもこんな食事をしていたわけではないだろうが、皿数を減らしても、メニュー構成そのものはあまり変わらないのではないだろうか。
 つまり、野菜をろくに食べないのにカロリー過多、しかも運動不足の者が多いとくれば、現代人の食生活の実態とあまりに似ていて、空恐ろしいほどだ。
 そのくせ、当時の上流貴族の日記には、体調が悪いからと高価な舶来の薬を飲んだり、牛乳やお茶などを薬用として摂取してみたり、健康にはいろいろと気を遣っている様子が窺われる。
 しかし、藤原道長などは晩年糖尿病を患い、合併症などもあってひどく苦しんで死んでいった。道長はおそらく栄華を極めた先にあるもの、不老不死を願っていたに違いない。だが彼のやったことは見当違いの薬を飲むことや、荘厳な寺を建てたり出家したりして仏教の力に頼ろうとすることだけだった。若いときから日々の食事に気を遣う、ということをしなかったのである。
 なんだか、テレビで取り上げられた食材を買いに走る人の姿が、道長たちの勘違いに重ならないだろうか。
 2001年1月31日 雛人形はリカちゃん人形
 出産という私事のためではあるが、HP更新を怠っていたことに、今更ながらに気付く。前回の平安漫言を見たら、何と、ちょうど去年のいま時分ではないか。
 さて、これからしばらく平安時代の年中行事について調べる予定である。と言うのも、現代人である我々にとって、それぞれの年中行事にどういう意味が込められているものか、再認識する必要があるだろうと思うからである。
 これまでのわたしは、正月のお節料理に始まって、クリスマスのライトアップに至るまで、何となく周りを見回したり本を見たりしながら、「こんな風にするものなんだ」「料理はこんな感じかあ」と、ごく適当に流してきた。
 ところが、子どもができて、今年はのっけから散財した。雛祭りの雛人形である。どこから情報が漏れたものか、子どもの名前宛に押し寄せるパンフレットの波。いちおう買うつもりではあったので、片っ端から見始めたものの、なぜこんな高いものを買わねばならぬのかと、次第にばかばかしくなってきた。双方の実家からは買ってあげようと言われ、それはありがたいものの、収納場所にも頭を悩ませる都会人、そこまでして買う必要があるのだろうか。
 それでも店に行って、店員さんに話を聞くと、庶民が人形を飾れるようになったのは江戸時代も末期だそうで、それまでは上流階級の特権だったそうである。それを聞いて、なるほどと思った。人形を飾ることで、現代の庶民は「うちは下層階級じゃないのよ」と言いたいのかもしれない。
 だが、江戸時代をもっと溯って平安時代に来てみれば、人形を飾るなどという行為はどこにも見当たらない。平安時代には、雛人形はリカちゃん人形と同じ、ミニチュアの家を作り、ミニサイズの調度品を使ってままごとをするものだった。我々は昔のリカちゃん人形のために、何万も何十万も出して雛人形を買うのだ。
 一方で、流し雛という風習がある。上巳の日、わが身の災厄をこの流し雛に移し、川や海に流すという。藁で編んだ丸い笊のような台に、紙製のこけしを薄っぺらにしたような人形が付いているだけの、簡素なものだった。昔、家にはこの流し雛があって、箪笥の上に飾ってあったのを覚えている。
 現在の雛人形や桃の節供は、平安時代の雛遊びの人形と流し雛が合体したものだと言われている。が、この質素な流し雛のかたちを想うとき、平安びとの願いが感じられるように思えてならない。病気も天災も、現代よりもっと脅威ある、不可思議な存在と受け止めていた彼らにとって、災禍を肩代わりしてくれる流し雛は、祈りの対象であったのではないかと思うからだ。
 と言いながら、結局買ってしまった雛人形。せめて色だけは好みでと、地味な朽葉色の唐衣を着たのを選んでしまった。娘が大きくなって、「わたし、ピンクがいい」なんて言いやしないかと、今から危惧している。
 2000年4月24日 紫式部を究める
 『源氏物語』に惹かれて早や20年あまり。
平安時代を追究しているのも、もとはと言えばこの物語と、そしてその作者、紫式部を知りたいがため、今でも基本的にそれは変わらない。
 どんなときも、両者はわたしの意識の片隅にあった。
 平安時代とはおよそ無縁の受験戦争に巻き込まれている最中や、コンピュータ会社で黙々とプログラミングする毎日を送っていてさえ、である。殺風景な部屋なのに、本棚に並ぶ紫式部や平安時代関連の本は、燦然と輝いて見えた。
 このごろようやく、時間もできたことだし、HPに紫式部のことをまとめたいと思うようになった。ところが、溜めてきた想いを何とか目に見える形にしようとすると、途端に陳腐なくだらないものになってしまう。紫式部の家集や日記を調べ、ゆかりのある土地を訪ね、源氏物語の登場人物たちを調べ……というような、すでに人がしているようなことをまた繰り返すだけなのだ。
 それがわかっていて、やはりやってみたいと思うのは、なぜだろう。まさか、わたしが式部に深い関わりのある地の生まれだからでもあるまいに、不思議なことではある。
 2001年2月1日 寝殿造とプライバシー
 旧暦の正月が近いが、早くも梅が咲き始めた。和歌でも正月、春の花はまず梅だが、旧暦だとうまく開花の時期と合い、いかにも立春の花だという気がする。新暦だと今ごろはまだ冬だという感覚が残っており、春の花と言われると桜を思い出してしまうのも、このずれのせいもあるに違いない。
 しかし、春が来ても寒さはまだ続く。断熱材とガラス・アルミサッシに囲まれた家に住む私でさえ、ストーブは必需品。底冷えのする京都、加えて平安時代は現代よりかなり寒かったはず。寝殿造りの板の間で、火鉢や炭櫃だけを抱えていた平安貴族はエラいというほかはない。『徒然草』ではないが、夏をむねとして家を造っていたのだから、仕方ないと言えばそれまでなのだが、それにしても、もう少し部屋に壁や建具を増やしてもよいのではないか。隙間風が絶えず吹き込み、おちおち寝てもいられなかったのでは。
 もっとも、当時はプライバシーなどという概念はなかったから、広いワンルームを几帳で仕切るくらいで事足りていたのだろう。実用面を別にすれば、このプライバシーのなさは、逆に住む人の緊張感をかき立てて、宮中、ことに後宮のサロンというような特殊な場所では、熱気や活力というものを沸き上がらせる原動力となっていたのかもしれない。
 たとえば、ある女房の局に公達が訪ねてくる。廊下を近づいてくる沓の足音も響くが、遣戸を叩く音も筒抜けである。女房が局に招じ入れて、中で話している声もある程度は聞き取れたはずだ。それで、夕べ誰が訪れてきたか、当人が喋らなくても翌日には朋輩たち全員が知っているということになる。
 およそ隠し事ができない場所、となると人は反対のことをするしかない。自慢し、見せびらかすこと。恋人の来訪も、隠す必要はない。むしろ人数だの、相手の男の素性のよさや優秀さを朋輩と競えばよい。モテる女だったら、宮仕えは楽しくて仕方なかったろう。それに、自分たちがお仕えする女御や中宮だって、帝の寵を争っているのだ。女房が花形の公達をゲットすることが、宮中での自分たちのサロンを盛り上げることにもなる。一石二鳥というわけだ。
 清少納言は、こういう自慢話が好きな人だった。『枕草子』には清少納言の自慢話が散りばめられている。定子のため、という意識もあったろうが、やはり自分のことを人に知ってほしい、すてきな恋人は見せびらかしたいし、定子に誉められる自分の才気煥発というものも自慢したい。持って生まれた性格で、彼女は自然にそう思った。だから、宮仕えを謳歌できたのだ。
 ひきかえ紫式部は内向型で、たとえ恋人がいても、決して人に吹聴するタイプではなかったろう。また、宮中のプライバシーのなさを嘆いていることからも、性格的に宮中が向いていなかったと言うべきか。式部が宮仕えになじめなかったのは、ただ中流階級の出だから口惜しい思いをする機会が多かったというだけでなく、自分のことを人にさらけ出し、認めさせようとするしかない気風に染まらなかったことにもあるのではないだろうか。
 2000年1月5日 日々の食事
 「素顔の平安ライフ」を探るべく、まずは平安時代の飲食について調べることにした。食事や食品について具体的な記述のある史料と言えば、『倭名類聚抄』『延喜式』。これは役に立つ。それに、『源氏物語』をはじめとする文学作品にも意外に食べ物は登場している。
 が、これらはあくまで貴族が食べていたものや、諸国から中央政府への貢納物として挙げられている食品名を羅列したものである。調理法にしても同様で、宮中で行われていた料理や、遠い地方から都までの間に食物を腐らせない工夫としての食品加工はわかるのだが、いざ庶民の食卓はとなると、心許ない。
 史料としては後世のものになるが、鎌倉時代あたりの絵巻物に描かれているものを見ると、その生活が手に取るように感じられて興味深い。鰻の寝床のような、間口が二、三間の町屋に住み、赤子を背にくくりつけて洗濯をしたり水汲みをしたり、といった庶民の女が描かれていると、つい「彼女はこの日、どんな夕食を作ろうと考えているんだろう」とか、「ダンナはいるのかな。庶民の中でも多少なりと稼いでいる人のおかみさんなら、おかずは毎日何品くらい作れるんだろう」とか埒のない想像をしてしまう。
 だが、そんなことはどんな文献にも書かれていない。今の自分だって、毎日食べたものを克明に記録したり、それを他人に見せたりする気にはなれないだろう。よそゆきの服を着て外出するように、完成した「レシピ」は見せても、実際に作ったもの、食べたものは公表しない。同じ時代に生きていて、どうせ同じようなものを食べているだろうと思っているせいか、興味を持つ人もいないのではないだろうか。
 しかし、別の時代の人間となると、話は別だ。いま、平安時代の食生活を掘り起こすのと同じように、あるいは1000年後、西暦2000年当時の庶民の食生活に興味を持つ者が出てくるかもしれない。ということは、わたしも毎日のおかずを日記にでも書いておくべきなのだろうか?