(2)絶対音感感と音楽

ちょっと前だが、ある本が出て絶対音感が持て囃された事があった。当時は絶対音感階無ければ音楽を語る資格無し、絶対音感感さえあれば音楽が出来ると言った風情だった。さて、そうだろうか。絶対音感感がある人で、音程が悪い人を少なからず知っている。第一、世間で言う絶対音感感とは半音階で区分けして音名を言える能力の事だろう。作曲家の別宮貞雄氏の著書によれば巷間言われている事は記憶しているだけで、真の絶対音感はもっと厳密なものらしい。そこまでの能力はむしろ不便らしい。テレパシーがあると気が狂うというSFを思い出す。

話を戻そう。半音の違いをとらえる事が出来る能力をどの程度に考えればいいのだろう。機械にも性能の良し悪しがあるのと同様にこうした能力にも優劣がある。極端な話、区分けのボーダーである半音が四分の一音程近く上下に狂っていても一つの音として感じる事になる。まあ、ここまででなくても狂いはある訳だ。ピアノの様に音の間隔が変わらない楽器ならいいけれど、弦楽器や管楽器は常に変わっている。それにそうしたものが無くても、修練を積めば楽器を持った時にしっかり音を保てるし、絶対音感感があるように演奏出来る。それどころか微妙な音程も分かるし、音程良く演奏出来る。それはなぜだろう。こうした事を説明するのに、音楽を街に擬えてみよう。

さて、ここに姓は一番名は芭寸(いちばんばすん)という人がいるとしよう。職業は配管工、つまり職人だ。太いパイプ専門で、細いパイプを扱う職人たちと働いている。

住所は十二音市〜ハ長町1丁目〜Cアパート〜1番。市にはセリー鉄道の12の駅があるが駅舎に取りたてて特徴は無い。しかし各町には最低でも調性公園、和声の森、旋律の泉の3つの町並みがある。その他にもいろいろある。こうした場所の辿り方で駅や町は特徴を出している。

住まいは見る人によって違う。所謂絶対音感があると言う人は基本的に駅の位置は分かるのだろう。しかし細かい町の様子まで分かるとは限らない。絶対音感の無い人は降りた駅は分からないかも知れないが、町の様子を観察するのは得意かもしれない。線路を辿って行きたい所には行けるだろう。それに一度来た場所は覚えられる。

強弱高低長短の音を組み合わせれば音楽になるが、一つ一つの音それだけには余り意味がない。もちろん一つでも強い音弱い音、良い音悪い音、快い音不快な音、長い音短い音と言ったものはあるが、これだけでは音楽にならない。言葉でも50音表の発声が分かったからと言って日本語が話せる訳では無いからだ。他の言語に付いても同じだが。従ってこの町では楽器の種類やその音色、声音などの組み合わせで家の作りが変わる。立派な家もみすぼらしい建物も、建築途中のものもある。そしてその環境は調性公園、和声の森、旋律の泉によって影響される。音の高さが分かるだけでは意味が無い訳だ。色々な知識と統合されて初めて意味を持ってくる。三田先生は「チューナーに音程を合わせても合奏は出来ませんよ」と仰っていたが、その通りだと思う。

駆け出しの見習い職人の頃、初めてニ短町に行った時など「何でフラット1棟なのにシャープ塔があるんだ!」などと慣れるまで訳も分からずC階段とCis階段を行ったり来たり。その上行きと帰りで違ったり同じだったり、迷路かここは!スケールを覚えるのも一苦労だ。そうこうしている裡に一人前になり、次第に建物の構造を把握して行く。こうして仲間と力を合わせてより良い建物を目指すのだ。

仲間にはブリキ職人もいれば大工もいる。絶対音感があるからと良い職人とはいえない。絶対音感がなくても体が覚えている事もある。どちらも融通が利かないと迷惑な事がままある。かなり有名な角型ブリキ職人(絶対音感がある訳では無いようだ)の一緒に演奏した時に言った台詞がある。「自分は例えばAが443と決まれば絶対に動かないから」と。さて困った。有名な親方なので面と向かって言い難いが、一緒に仕事はしたくないなあ。音程も音楽も結構フレキシブルなものだ。B-durのBとF-durのBは役割が違う。なんて考えていると始業時刻だ。今日の仕事は外資系のベートーヴェン建設だが2流建築士の指揮だ。士気が上がらないが仕方がない。さあ仕事だ。

例え話はこのくらいにしよう。しかし実際、演奏家は合奏する時には職人であるべきだろう。オケで演奏しながら指揮者の役目をしたがるのは僭越だ。奏者は目の前の音の役割を考えて精一杯行う。指揮者が振り出せば縦横斜めに相応しい自分の音を出す。それだけだ。たまに絶対音感がある事をひけらかしてこれは何とかの和音の五音省略ね」なんて言う人もいるけれど、分かったから変るだろうか?知識として持っているのを無駄とは言わないが、多分変らない。音の悪い人は悪いまま、音程の悪い人もそのまま演奏するだろう。音が多く音域も広い楽器を扱うピアニストには絶対音感が必要だと思うけれど、それが無くてもアンサンブルで自分の立場が見えて、構造が分かれば音楽は出来ると思うのだがどうだろう。

当たり前だが、それさえあれば「音楽家」などと言うものは元々無いのだ。チェロのデュプレの伝記に面白い事が書いてある。イギリスでは絶対音感がある人が少なく、彼女はそれのある事が自慢だったそうだ。しかし、レッスンの為にトゥルトゥリエのいるフランスに行った時、みんな絶対音感があったので詰まらなかったと言う。フランスはソルフェージュが世界で最も盛んな国だから当然の結果なのだろう。その所為だけでは無いだろうけれど、早々にイギリスに戻ってしまった。ドイツでも日本ほど絶対音感の持ち主は多くないそうだ。でもイギリスもドイツも音楽の先進国だ。音楽の多くの才能は努力で磨かれるし、絶対音感のプライオリティーは楽器にもよるが、最重要とは言えないだろう。

音楽に身をやつした時、やるべき事は多く簡単では無い。12音市の属するクラシック県には「音楽の森と海」と言うとんでもなく広く深い所があり、その周りにはさらに訳の分からない「芸術の国」があるのだから。

ついでながら、妻がある時言った事を紹介してこの項を終えよう。彼女はピアニストで絶対音感がある。「あなたは絶対音感が無い筈なのに、鼻歌でちゃんとその音程で歌うの不思議だね。」意識をしていなかったので、吃驚した。それにその事を意識した瞬間に訳が分からなくなった。

おそらく私の身体の中に絶対音感に近い音感があるのだけれど、そのアドレスが分からないのだろう。でもその音を思う事は出来るのだ。これは不思議だが、皆さんも諒解されるのでは無いだろうか。そうでなければ実際に指揮したり演奏したりしていて、そこの音を高くしてとか低くしてとか言えないだろう。そうした時、私は出来るだけ意識しないで感覚に任せる事にしている。思いつきかと言われれば...そうかもしれないが ....。私と同様な人は割にいると思うのだが如何だろう。