(1)暴力と表現/非日常の出来事
少年の頃は喧嘩をする事があるだろう。口喧嘩から取っ組み合いになる事もしばしば。私にもあったが、やったのは投げる叩くで、どうしても殴る事が出来なかった。試みに(するような事ではないが)やろうとしても当たる直前に力が抜けた。特に顔を攻撃する事が出来ない。ところが平気で人を殴れる人間もいる。こうした事を普通の平穏な生活を送る人間からすれば非日常の出来事として捉えるが、それが日常の人間にとってはルーティンワークであるから敵う訳がない。職業で言えば、まあヤクザ。それに対抗する警察、軍隊など。こうした躊躇無い行動の為に不可欠なのが訓練だ。考えるより先に動かなければ負けてしまう。笑いながらの避難訓練でもやらないよりはマシかな。
そして音楽もまたそうした訓練が必要なのだ。何も考えなくても水準以上の演奏表現の為には身体が反応しなければ神経と脳が疲れてしまうし、何よりもテンポが維持出来ない。
喧嘩と音楽を一緒くたにするのは不謹慎と言う声もあるだろけれど、非日常を日常に変えるのが訓練で、それを有効に使う事が演奏だと考えれば両者は似ている。訓練不足の為にフォルテの手前で息切れしては意味が無いからだ。最高の表現を目指すなら、訓練を通じて必要な事を充分に身につけるしか無い。兎に角プロは長く演奏出来無いと話にならないのだ。
録画が残っていて良かったと心の底から思った事がある。天才ヤッシャ・ハイフェッツのものだ。その中で、ハイフェッツが「指と弓をリンクさせる練習は詰まらないけれど、絶対に必要だ」と古希を過ぎてからもこうした訓練を怠らない事を示してくれた。それが済んでから曲の練習をする。聞く所によると、諏方内晶子氏も何時間でも同様な訓練をしていた(恐らく現在も)そうだ。また、私の尊敬するフルート奏者に木下芳丸氏がおられるが、氏もまた朝からこうした訓練を怠らなかった。氏のお宅に泊めて戴いた折り、目覚める頃にソノリティーをされる音で目が覚めた。「僕はもう若くないから努力しないと駄目なんだよ」との言葉に更に尊敬の念を深めた。そして元ウルム劇場首席奏者の杉本暁史氏も、毎朝同様に音を出す作業をされていた。その世界で押しも押されもせぬ立場になっても惜しまぬ努力、追究する姿勢は絶対に必要なものだと思う。何れも素晴らしい体験だった。それに比べれと私は努力していないなあ(苦笑)
練習と訓練は違うのかと言われれば、同じとも言えるし違うとも言える。オケの「練習」(probe)は通常は訓練の場では無い。こうした事を踏まえて、個人で行う事でも知的な操作が入るものは敢えて練習と呼びたい。多くのアマチュアにはこうした認識が浅い様に思われる。最初から難しい事を考えて「練習」するからかも知れない。しかしパターンは飽きるほどやって初めて自分のものになる。ともかく演奏する事は非日常と認識し、日常に近づける努力が必要だ。訓練が行き届けば、才能が無くても頭が多少悪くてもある程度の演奏が出来る。訓練とはパターン化だからだ。エチュードは音楽をパターン化して初見を初見でなくする為にやる。技術的にも音楽的にもだ。ただし訓練は応用出来る形でしなくてはならない。よくある事だが、学校のブラスバンドの様に、コンクールのためだけにやっても調教になってしまう。調教は訓練ですらない。
エチュードは何度もやる事で意味が分かってくる。最初は訓練なので面白くないものだ。しかし、音楽的な意味が理解出来て、内包されるフレーズ、メロディーなども吹き分けられると楽しいものになる。そう言う意味では学校の勉強と同じだと思う。また良い頭脳より強い頭脳が必要なのかも知れない。(1)暴力と表現/非日常の出来事
少年の頃は喧嘩をする事があるだろう。口喧嘩から取っ組み合いになる事もしばしば。私にもあったが、やったのは投げる叩くで、どうしても殴る事が出来なかった。試みに(するような事ではないが)やろうとしても当たる直前に力が抜けた。特に顔を攻撃する事が出来ない。ところが平気で人を殴れる人間もいる。こうした事を普通の平穏な生活を送る人間からすれば非日常の出来事として捉えるが、それが日常の人間にとってはルーティンワークであるから敵う訳がない。職業で言えば、まあヤクザ。それに対抗する警察、軍隊など。こうした躊躇無い行動の為に不可欠なのが訓練だ。考えるより先に動かなければ負けてしまう。笑いながらの避難訓練でもやらないよりはマシかな。
そして音楽もまたそうした訓練が必要なのだ。何も考えなくても水準以上の演奏表現の為には身体が反応しなければ神経と脳が疲れてしまうし、何よりもテンポが維持出来ない。
喧嘩と音楽を一緒くたにするのは不謹慎と言う声もあるだろけれど、非日常を日常に変えるのが訓練で、それを有効に使う事が演奏だと考えれば両者は似ている。訓練不足の為にフォルテの手前で息切れしては意味が無いからだ。最高の表現を目指すなら、訓練を通じて必要な事を充分に身につけるしか無い。兎に角プロは長く演奏出来無いと話にならないのだ。
録画が残っていて良かったと心の底から思った事がある。天才ヤッシャ・ハイフェッツのものだ。その中で、ハイフェッツが「指と弓をリンクさせる練習は詰まらないけれど、絶対に必要だ」と古希を過ぎてからもこうした訓練を怠らない事を示してくれた。それが済んでから曲の練習をする。聞く所によると、諏方内晶子氏も何時間でも同様な訓練をしていた(恐らく現在も)そうだ。また、私の尊敬するフルート奏者に木下芳丸氏がおられるが、氏もまた朝からこうした訓練を怠らなかった。氏のお宅に泊めて戴いた折り、目覚める頃にソノリティーをされる音で目が覚めた。「僕はもう若くないから努力しないと駄目なんだよ」との言葉に更に尊敬の念を深めた。そして元ウルム劇場首席奏者の杉本暁史氏も、毎朝同様に音を出す作業をされていた。その世界で押しも押されもせぬ立場になっても惜しまぬ努力、追究する姿勢は絶対に必要なものだと思う。何れも素晴らしい体験だった。それに比べれと私は努力していないなあ(苦笑)
練習と訓練は違うのかと言われれば、同じとも言えるし違うとも言える。オケの「練習」(probe)は通常は訓練の場では無い。こうした事を踏まえて、個人で行う事でも知的な操作が入るものは敢えて練習と呼びたい。多くのアマチュアにはこうした認識が浅い様に思われる。最初から難しい事を考えて「練習」するからかも知れない。しかしパターンは飽きるほどやって初めて自分のものになる。ともかく演奏する事は非日常と認識し、日常に近づける努力が必要だ。訓練が行き届けば、才能が無くても頭が多少悪くてもある程度の演奏が出来る。訓練とはパターン化だからだ。エチュードは音楽をパターン化して初見を初見でなくする為にやる。技術的にも音楽的にもだ。ただし訓練は応用出来る形でしなくてはならない。よくある事だが、学校のブラスバンドの様に、コンクールのためだけにやっても調教になってしまう。調教は訓練ですらない。
エチュードは何度もやる事で意味が分かってくる。最初は訓練なので面白くないものだ。しかし、音楽的な意味が理解出来て、内包されるフレーズ、メロディーなども吹き分けられると楽しいものになる。そう言う意味では学校の勉強と同じだと思う。また良い頭脳より強い頭脳が必要なのかも知れない。