音楽の世界にも、首肯出来るもの出来ないもの取り混ぜて色々な禁忌があるが、時代で変る事も多い。最近はピリオド奏法が持てはやされているが、これもいつまで続く事だろうか。ヴィヴラートは禁忌だが、元々ファゴットがヴィヴラートを掛ける事が一般的になったのはアルベルト・ヘニゲ氏が出てからだと聞いている。私は菅原先生のデットモルト(北西ドイツ音楽大学/アルベルト・ヘニゲ教授)留学の後に生徒になったので、ヴィヴラートは習った。しかし、ウィーンでは掛けていなかったし、アーチー・キャムデンの「バスーンのテクニック」の中には「ヴィヴラートなんか掛ける奴は殺してしまえ」(註)と言う奏者もいると書いてある。確かに当時(3〜40年前)軽いヴィヴラートはあっても、まあ自然に掛かった程度だろう。自分の経験を言うと、ミュンヘンフィルが初めて来日した時強烈なヴィヴラートがファゴットから聞こえて来てびっくりした事を覚えている。
ベーレンライター版でベートーヴェンの全集を入れたのはジンマン指揮のトーンハレ響だが、これはピリオド奏法を取り入れていてホルンもゲシュトップの音を使ったりしている。ところがファゴットの名人マンフレッド・ザックスだけはヴィヴラートを掛けて朗々と吹いているのだ。げらげら笑ってしまった。ザックスの方がジンマンより偉いという事なのだろうか。
私自身は余り強いヴィヴラートは好まないので、どちらかというと掛けない事も多い。全く掛けずに吹く事も苦痛では無いし、自分なりの表現が出来ないと言う事も無い。だからと言って、流行りに左右されないと豪語するつもりは無い。好きな様にやっているだけだから。話が逸れて来たので、戻そう。
日本の管楽器界で、ダブルタンギングは長らく邪道扱いされて来た。確かに独墺仏の奏法ではダブルは好まれない。大体彼の国々の奏者は言葉の所為か、速い人が多いのだ。ヘンカー先生もダブルに良い顔はしなかった。前出の本でもダブルは駄目だと断じている。日本人でも速い人はいるが、多くが悩んでいる問題だろう。
私は元々シングルが遅かったのと、ユーフォニュウムをやっていた事もあり、ファゴットを吹き始めた頃から間に合わないと使っていた。しかし、シングルが遅いのではプロの世界では中々やって行けないと思い、頑張って人並みに速くしたが今でも速くは無いし、練習をサボるとすぐ遅くなる。自慢では無いが(笑)
確かにシングルの方が明確に演奏出来るし、音の長さもコントロール出来る。しかし、ある程度以上のテンポなら問題にならない事もあるのでは無いかと考えていた。それにアンソニー・ベインズの「木管楽器とその歴史」にも、モーツァルトの時代にはダブル、トリプルは普通のテクニックだと書いてある。楽器の改良が進む間に音が明確になって、ダブルだと充分な結果が得られなくなり廃れて来たのだろう。以前にジョージ・ズーカーマンがヤマハで講演をした折り、この事で論争した事がある。彼はダブルタンギングを認めなかったが、オケで吹いてない人だからだったのだろう。彼は「ダブルじゃないと間に合わないのはベートーヴェンの4番くらいだろう」などと言っていた。
しかし、ダブルが当たり前の国もある。ロシアだ。ポポフはダブルタンギングの大名人である。ここでは最初からダブルタンギングを普通のテクニックとして練習する。ロシア人の指揮者に「ダブルタンギングの方が軽く聞こえるから、それで」と言われた事もある。
更に近年出版されたウィリアム・ウォーターハウス氏の本にこうあった。「人一倍タンギングを練習しているのに、自分より速い人を見てやる気を無くしちゃいけない。動きの悪い舌にはダブル、トリプルタンギングと言う方法があるのは幸運だ」
何と嬉しい記述だろう。上手にやればシングルと遜色無いともある。姑息な手段としてダブルタンギングを捉える必要は無いのだ。ウォーターハウス氏は世界中の音楽家から尊敬される奏者だ。フランセやジェイコブも彼に作品を捧げている。私も氏の録音を聴いてやってみようと思った曲が沢山ある。この一文を読んで、私の中でタンギングの呪縛から完全に解放された瞬間だった。ただ本人が使っているかどうかは定かではない。
でも、有名な演奏家も結構ダブルタンギングは使っている。クライバーの日本における演奏会でベートーヴェンの4番をやった。バイエルン歌劇場管弦楽団のファゴットの1番は、ヘンカー先生の一番の生徒だったポップさんという人だったと思う。終楽章の余りの速さにタンギングが出来ず、途中からスラーになってしまった。こうなるならダブルタンギングを使う方が良いだろう。私自身もこの呪縛から中々抜けられず、使えば良かったと思う事は一度や二度では無い。
このテクニックを使う上で、問題になる点と解決法を少し挙げてみよう。
(1)安易にダブルタンギングを使ってシングルを速くする努力をしない事
(2)ダブルタンギングをしっかりと練習しない事
(3)ダブルの有利な点、使い方を研究しない事
などではないだろうか。それでは、順に検証してみよう。
(1)シングルも練習すれば速くなる。私は16分音符×4≒100でも怪しかったが、練習をした事で最も速い時は144で切る事が出来た。ただ長く続ける事は出来なかったが。こうした努力無しに、安易にダブルタンギングを使うと指の練習までいい加減になる事も問題だ。タンギングと指をリンクさせる事無しに、何と無く出来た気になってしまう。またテンポもいい加減で、やたら速くなってしまう事も少なくない。少なくとも126をシングルで切れるようにする努力は必要だ。ベートーヴェンの4番でもダブルタンギングだけで処理しようとすると、前打音が上手く入らない。シングルを組み合わせられないといけない。その為にもシングルも練習する事だ。
(2)"ク"をしっかり発音出来る事と、"トゥ"を柔らかく発音して差異を小さくする事はもっとも大事な事だ。これに関して付け加えれば、三田先生は"トコ"と発音すると良いと仰っていた。しかし金管やフルートと異なり、リードを鳴らすので喉を酷使するのため、いきなり頑張ってやると痛める。時間をかけて鍛えなければいけない。ダブルタンギングだって難しいのだ。ポポフのエチュードやウォーターハウス氏の本を参考にするのも良いだろう。フィンガリングとリンクする様に根気よくやるしか無い。
(3)速いスタカートへの恐怖が減るので、他の事に神経を使える。私にとって最大のメリットは息を経済的に使える事だ。ウェーバーの「アンダンテとハンガリアンロンド」(拙演をこのページ最後に置く)の最終部分で三連音符が続く所だが、書いてある音を全て吹けない事がほとんどだ。これはタンギングの速さより息が無くなって仕舞う事が問題になる。私もこれは出来ない。しかしダブルタンギングを使えば吹き切る事が出来る。しかもより速く。タンスマンのソナチネの終楽章前半の部分もダブルタンギングを使えばワンブレスで行ける。それに「トゥク」とやると自然に弦楽器のボウイングにアクセントが似る。これは上手く使えば弦楽器とのアンサンブルに効果大だ。
取り敢えず日頃考えていた事を書き連ねてみた。ダブルタンギングは決して姑息な手段では無いのだ。ただ最後にちょっと面白い話を紹介しよう。ダブルタンギングをやろうとしている人のやる気を削ぐかもしれないが(笑)
N響におられたホルンの安原さんは私の大好きなホルン奏者だが、氏の若い頃のエピソードだ。これはあるホルン吹きから聞いたのだが、その後安原さんの生徒に確認したので間違い無い話だろう。
氏は広島大学の御出身である(広大出身の音楽家では東フィルOBのファゴットの井料さんがおられる)。プロとして活動する為に東京に出て来た折り、一緒に吹いているホルン奏者のタンギングが速いのに驚かれたそうだ。これはタンギングを何とかしないと東京では通用しないと考え、一念発起して練習する事に。しかし、どのくらい速ければ良いのか見当が付かない。遂に決めた目標は、驚くと言うか常人には考えもつかないものだった。
メトロノームの一番速い所より、重りを取った速さで出来れば間違い無いだろうと。そしてやり遂げたというのだから恐れ入るばかり。そうしてから一緒に演奏すると周りから「タンギング速いねえ」と言う声。当たり前だが(笑)「みんなだって速いじゃない」と言うと、「俺たちはダブルタンギングをしているから」と言われたそうだ。安原さんはダブルタンギング自体を御存じなかった訳だ。しかし、そのお陰で人並み外れた才能を発揮した訳だから、全く人生は皮肉に出来ている。
さて、このエピソードはダブルタンギングをやろうと思う気持ちに、どう作用するのだろう。
(付録)ハンガリアンロンドのアンダンテ変奏部分(シングル)とストレッタ部分(シングル+ダブル+トリプル)
本番の録音なので、吹き損ないもあるが、そこは御容赦あれ。(1996年松戸森のホール/ウルムの仲間達と)
(Fg)森川 使用楽器/Walter Professional model (Pf)森川有子
註/日本語版の本ではもっと穏やかに記してある。原本を私も見てないのだが、三田先生が「原本を見ると"殺してしまえ“と書いてあるね。」と仰っていた。