[リストへもどる]
一括表示
タイトル湯田上温泉の呼び名の発祥
記事No869
投稿日: 2009/09/06(Sun) 21:16
投稿者廣の字   <hosoi@info-niigata.or.jp>
 ごぶさたしております。
 湯田上温泉はご案内のように元文三年開湯とさせていますが、
当初から湯田上温泉と呼ばれていたはずはなく、
「田上の湯」であるとか「湯小屋」などと呼ばれていたと
思われます。
 いったい、いつ頃 湯田上温泉に変わったものでしょうか。
 湯田上の入り口にかつてあった石碑に「湯田上温泉」と彫ってある
写真が残っています。
 写っている人物から推定して、昭和10年頃のものだと思われますので
 その頃にはすでに「湯田上温泉」という呼び名が定着していた
ことになります。
 明治12年の諸国温泉一覧には「田上の湯」と表示」されています。
 また幕末の尊攘派の志士清河八郎が著した旅日記「西遊草」には
安政二年(1858年)「・・・松木やの下女にもたせ、笑ひながらして
三里ばかり歩み、湯田上にいたる。」 と記述されています。

 ほかになにか手がかりは、ないものでしょうか。

タイトルRe: 湯田上温泉の呼び名の発祥
記事No870
投稿日: 2009/09/07(Mon) 07:21
投稿者管理人
管理人です。
お久しぶりです。

>  ほかになにか手がかりは、ないものでしょうか。
 「国土地理院では、測量法第27条第3項(測量成果の公開)の規
定に基づいて、旧版地図の閲覧を行っています。」
となっていますから、国土交通省国土地理院(茨城県つくば市北郷
1番)に行けば過去の地図を閲覧することができます。現在の地図
では「湯田上温泉」と表示されています。これがいつ変更になった
かを調べるのです。
確か大きな本屋から年度を指定して古い地図を買うこともできるの
ではないでしょうか?。
轡田さんが古い1/25000の地図を持っているかも知れません。
役場に聞いて見る手もあります。

 ところで、ついでにお聞きしますが、旧館の下側に清水穴があり
ましたが現在はどうなっていますか。
 もしこの穴の歴史がわかったら教えてください。
     

タイトルRe^2: 湯田上温泉の呼び名の発祥
記事No871
投稿日: 2009/09/07(Mon) 17:22
投稿者廣の字   <hosoi@info-niigata.or.jp>
廣の字です。
 ありがとうございました。

 旧館の下の穴は今もあります。
 しかし、半分くらい埋まっていて中に入ることはできません。
 私はちゃんと調べたことはありません。
 どういう穴だったのでしょう。
 結構深くて、どこそこまで繋がっているというような、うわさ話は
聞いたことがありましたが、真偽はわかりません。
 追々 調べてみたいと思います。

 
 当然のことながら、昔のことがだんだんとわからなくなっています。
 昨年、40数年ぶりに薬師様のお祭りを再開して、お薬師様のご開帳を
いたしました。
 お堂の中に昔使ったと思われる幟旗がありました。
 縁の下には、木の旗竿も残っているので、これを修理して昔のように
旗を立てられないかと考えましたが、具体的にどうやって基の部分を
組み立てたかがわかりません。
 現在はどこの神社も幟旗は金属で作られており、住民総出で旗を
立てるという作業もなくなりました。
 これも、なんらかの方法で復活してみたいもんだと思っています。 
     

タイトルRe^3: 湯田上温泉の呼び名の発祥
記事No872
投稿日: 2009/09/08(Tue) 03:16
投稿者管理人
> 廣の字です。
>  ありがとうございました。

まだ行く日が決まっていませんが国土地理院には一度行かないとい
けない用があります。もし、それまで、問題が解決していなかった
らこちらで調べてきます。

>
>  旧館の下の穴は今もあります。
>  しかし、半分くらい埋まっていて中に入ることはできません。
>  私はちゃんと調べたことはありません。

それは安心しました。誰も入れない方が過去の状況を保てるので好
都合です。

>  どういう穴だったのでしょう。
>  結構深くて、どこそこまで繋がっているというような、うわさ話は
> 聞いたことがありましたが、真偽はわかりません。
>  追々 調べてみたいと思います。

私は小学生の頃何度も探検しました。穴は中で二方向に分かれてい
ます。どちらもそんなに深くありません。(門造さんの奥にも、も
う一つの穴がありますが、水が多くて入れませんでした、こちらは
深そうです。)

金を掘った跡とのことでしたが、何時頃のものかもわかりませんで
した。田上町史にも少し書かれていたと記憶しています。

私の最近の研究から、どうもこの穴の位置が決められたのは「有史
以前ではないか?」とした可能性が出てきました。

(信じてもらえないと思いますが、数学的には、すでにその証明が
可能なのです)

この清水穴に限らず、佐渡の金山、銀山なども伝えられている時期
ではなく、とてつもなく古い歴史を持っているようなのです。
新潟県に限らず日本全国にその例が見つかりました。有史以前に金
や銀だけでなく銅、鉛、水銀まで日本で採掘されていたのは間違い
ありません。

しかし、日本の古代遺跡からは金、銀製品が全く発見されません。
これは大きな謎なのです。(日本の古代は採掘するまでもなく、
自然金、自然銅がごろごろしていたはずです。)

佐渡の金山などは、有史になってから再び本格的に掘られているの
で、最初の状態を保っている可能性がありませんが、清水穴はその
後になって再度掘られることがなく、古代の状況を保っている可能
性があるのではないかと考えています。清水穴が世界最古の鉱山跡
になるかも知れません。

穴を掘った道具が鉄器を使っていなかった証明ができると、古代史
を根本から覆す可能性を持っているのです。

掘削跡の表面を金属分析をして、掘った道具を知ることができるの
ではないかと考えています。その道具が鉄ではなく、銅器、または
石器だとしたら大発見です。もしそうなら、湯小屋の源泉も古代か
ら利用されてきた可能性も持ってきました。
 
>  お堂の中に昔使ったと思われる幟旗がありました。
>  縁の下には、木の旗竿も残っているので、これを修理して昔のように
> 旗を立てられないかと考えましたが、具体的にどうやって基の部分を
> 組み立てたかがわかりません。

私はその幟旗竿の構造と幟旗立ての様子も良く記憶しています。
はじめは表面部分が穴の開いた四角の石になっている穴に竿を差し
込んでいました。その後構造が変わり、二本の低い支柱を立て、そ
の間に竿を入れます。

支柱の下部には丸い三つの穴があり、中心の一つの穴は心棒で支柱と
止めて置いて回転できるようにしておきます。竿に縄をつけて大勢で
引っ張るのです。竿が立ったら残った穴と支柱の穴に棒を通して固定
するのです。

幟旗立ての日は、ほら貝を吹き、「はたたてられー」と大声で叫ん
で近所の人を呼び集めます。子供の頃このほら貝を吹かせてもらう
のが楽しみでした。

 
>