小学校の遠足で護摩堂山に登った時は、何にもなかったという印象が鮮明でしたので、紫陽花の山というのは、とっても驚きです。本当に、離れて初めて知る故郷の様子です。 実は、田上が温泉地だなんて昨年初めて知ったのです。私は、矢代田の生まれですが、祖父が田上村の湯川で水車で粉を引いてお菓子屋さんに納めていたそうで、さらにそれ以前は後天ヶ沢で湯治場を開いていたそうです。私は小学校6年の時に、この地を離れてしまいました。でも、自分の原点はここかなと思っている今日この頃なので、このホームページを発見して、とてもうれしくなってしまいました。ありがとうございます。 昨年、父が亡くなって、初めて先祖のことが気になり、調べだしたところです。もし、お隣の矢代田の駅前で明治時代に開業していた叶運送店・高輝館・つるやについて、情報がありましたらお知らせください。[1999年6月30日 20時18分0秒]
関西からの?書き込みありがとうございます。護摩堂山に登った時に何もかったとは何時頃のことでしょうか?。確か昭和20年代はまだ頂上付近に木があり、神社もあったと記憶しています。神社は昭和50年代に無くなっしまいました。天ケ沢の湯治場の話は初めて知りました。現在はここに立派な温泉が出来ています。私の生まれた山田は水車が六つもありましたが湯川は1つしかなかったと記憶しています。父の実家が矢代田の兎谷ですから、古い時代の矢代田がわかったら連絡いたします。(このページは自動改行しないので、勝手に改行を入れさせていただきました。[1999年7月1日 21時24分10秒]
お名前: 金子由紀子 terumai@osk.3web.ne.jp 護摩堂山の遠足は小学校の3・4年のころ(昭和40年ごろ)だと思います。倒れた木の下をくぐったり、結構しんどかったのだけ記憶しています。天ヶ沢は薬草を入れた湯治場だったそうです。湯川での水車での製粉業は大正3年ごろに機械による製粉が他地域で始まり廃業したそうです。わたしの伯父(88歳)は今、矢代田駅前でローソンをやっています。ご存じかもしれませんね。父が亡くなる時に、いろいろ昔の話を伺いました。ただ、何分遠方のため、わたしも気の向いた時にしか連絡をとらないために、ご迷惑をおかけします。「兎谷」という地名はなつかしい響きです。遅くなりましたが、私は旧姓は高野です。[1999年7月4日 22時56分32秒]
高野写真屋は記憶があるような気もしますがあまり記憶がはっきりしません。兎谷は小林姓はたくさんあり、親戚同士が多いようです。父の実家は猫がいましたが犬はいませんでした。 金津に向かう道の外れ道路の左側にも小林家があり、ここは犬がいたと思っています。金山にも小林家があり、ここも親戚です。ここのご主人は機関車の運転手だったと記憶しています。(かなり不確かな記憶です) 昔の話ですが、父が養子に来る前に懸賞でラジオが当たったそうです。しかし、兎谷はまだ電気がなく電気のある矢代田駅の近くの家にラジオを置かせてもらっていて、わざわざ歩いてラジオを聞きに行っていたようです。そのうちに毎日ラジオを聞きに行くのが面倒になり、ラジオをおかしてもらっている家の蓄音機とラジオを取り替えてもらったそうです。私が幼少の頃、とても立派な蓄音機が父の実家にありました。[1999年7月13日 21時55分50秒]
伯父さんは今はローソンですが、本業は写真屋です。お菓子屋・たばこや・酒屋と発展し、ローソンに変身です。それ以前は、そこで祖父母が下駄屋。それ以前が高輝館・つるや、その前が田上の湯川で水車にMonよる粉屋というわけです。矢代田にいたのは小さい時の数年なので、轡田農機具店は、ごめんなさい、覚えていません。そういえば、兎谷に母の友人で小林さんという人がいたような気がしますが、はっきり覚えていません。電線のようにはった針金に鎖がつながれていて犬が走りまわっていたおうちでした。[1999年7月12日 16時12分51秒]
お名前: 管理人 URL そうですか、昭和40年頃は最も護摩堂山の管理がおろそかになった頃だったと記憶しています。倒木があったのもその頃です。その後、昭和40年の半ばくらいから整備が始まりました。田上の山田地区での水車による製粉は昭和30年代くらいまで行われていました。現在、頂上付近はアジサイの木でいっぱいで3万本もあります。 矢代田駅の近くには高野姓が何軒もありますね。恐らくご存知と思いますが駅前の県道脇に、かつて、轡田農機具店があったはずです。すでに亡くなりましたがこの店主は私のいとこにあたります。昔は饅頭屋をやっていたようで饅頭屋とも呼んでいました。兎谷にある父の実家は小林姓です。[1999年7月6日 0時28分2秒]