私のページで、護摩堂について書いていますが、初期の護摩堂城主については書くことを控えていました。これは諸説が入り乱れ、史実か伝説か不明なことが多いからです。 元、護摩堂城主の平賀宝山盛義についても、色々な説があります。平賀姓はアイヌ語 の「Pira・Ka」(崖・上)とする説や「平か」(葉の浅い下駄)などの説もあります。 平賀の地名は現在の住所で検索すると下記があり、すべて東日本にあります。
北海道沙流郡門別町平賀 青森県南津軽郡平賀町 岩手県盛岡市平賀新田 千葉県松戸市、久保平賀、殿平賀、東平賀、平賀 千葉県印旛郡印旛村、平賀 、平賀学園台 新潟県新潟市平賀 長野県佐久市平賀 岐阜県関市市平賀 岐阜県加茂郡富加町大平賀
アイヌ語の地名が比較的に多く残っていると云われている青森県の南津軽郡の平賀町は大光寺町、柏木町、竹館村、町居村、尾崎村の五カ村が昭和30年に合併してできた新しい町ですが、古い時期にも平賀の地名が使われていたようです。しかし、この土地からは、とても「Pira・Ka」=(崖・上)とする説明は見つけることが出来ませんでした。 偶然かも知れませんが、護摩堂城や、佐久の平賀城はどちらも絶壁の上にある城でこれにぴったりと該当します。しかし、昔の城はこれが当たり前なので、これだけで理屈を付けるのも納得がいきません。それよりも福王寺に関する共通点に注目していますが、これもまだ暗中模索の状態です。
今のところ、長野県の南佐久郡の平賀町が最も関係があると考えていますが、この土地も武田方に滅される以前の記録が少なく、決定的なものはまだ見つかっていません。 ぜひ皆さんのお知恵を拝借したいと希望しています。
[1999年10月14日 0時36分57秒]
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