本学OBからのアピール

 本学にゆかりのある教授の方々から学長選挙問題に関して励ましのアピールを頂きましたのでここに掲載します。

田中克彦(本学名誉教授)
文部省様に叱られました。ヘイそりゃすんませんでした。とやめてしまう人たちに残る学問や研究、ましてや教育はどんなものか。
「自由の殿堂」が泣いているぞ。石も樹も。
世間様にも恥ずかしくはないか。学生諸君、今こそ、一橋の品位を守る歴史的な行動に参加するときだ。


安丸良夫(本学名誉教授)
学長・学生部長の選挙制度のような問題は、もともと大学が自主的に決定するべき次元に属しています。文部省もこのことを一面で承認しているからこそ、批判はしても結局は発令してきたのだし、大学側に自発的な改革のかたちをとるように求めてきたのでしょう。この原則問題を抜きにして、予算という選挙制度とは何の関わりもない次元で圧力をかけていることに憤りを覚えます。制度は人間がつくるものですから、状況に応じて変更するのは当然ですが、その根拠がもっぱら文部省とその背後に控えている諸勢力の意向によるというのでは、大学の立場は全く失われたことになります。学生諸君が、教職員をまきこんで討論の輪を広げ、大学の自治と活性化に積極的な役割を果たされるように訴えます。


都築忠七(本学名誉教授)
二十世紀先輩たちが幾多の困難犠牲の上にうちたてられた民主主義のとりで、二十一世紀へと伝えていただきたい学問の自由の金字塔、これが半世紀つづいた一橋大学での学長選への学生参加です。諸君が、そして日本が世界に誇りうる戦後民主主義の貴重な遺産です。大切に守りましょう。


川口智久(本学名誉教授)
大学は生きています。学生と職員と教師がそれぞれに機能し、協力・共同することによって社会に対する役割を果たし、社会の発展に貢献することが出来るのです。しかし学生を単なる通過者、機関の意思に従属すべき集団として捉え、大学の在り方に影響を持つ事態にも意見・態度表明が許されないとすれば、それは大学の名に値しない「大学」に過ぎません。最早、自己の意志を持たない植物人間的状態に陥っていることを意味します。今こそ、皆さんは総力を挙げて一橋大学が本当の意味で大学であり続けるために誇りと信念を持って活動し、多くの人たちを説得する努力をしてください。


藤岡貞彦(本学名誉教授)
 これは「学難」である。
 八月十九日、「朝日」「読売」紙上に報じられた「学長選に学生らの参加とりやめ」の記事に、おどろきをおぼえなかった本学関係者はいないだろう。はたせるかな、『如水会々報』九月号には、母校の現状を「学難」とする危機感(90ページ)や、「一橋の伝統を無にするようなことがあれば、学生諸君を中心として我々先輩、先生方が一致して対応する」(12ページ)という決意が表明されている。心強いかぎりだ。
 元冦にせよ、軍船にせよ、「国難」はいつも外圧として外からやってきた。「学難」もまた然り。
 学生・職員参加の制度は、一橋大学を一橋大学たらしめてきた建学以来の精神である。個性化の時代に、「普通の大学」に堕して、どこに一橋のアイデンティティがあろう。「国難」と同様に「学難」に対して、挙学一致、「一橋の苦難の歴史」(同8ページ)に想いを致し、〈大学の精神〉の擁護にあたっていただきたい、と切に思う。


浜林正夫(本学名誉教授)

 学生の皆さん。除斥投票に参加しましょう。学生の投票率が低いことも文部省にこういう政策をゆるす一因となったのです。
 ユネスコ「二十一世紀の高等教育、ヴィジョンとアクション」(1998年)は、学生は高等教育改革の「主要なパートナー」であるといっていますが、大学審議会「二十一世紀の大学像と今後の改革方策について」(1998年)は学生を管理の対象としてしか見ていません。それどころか、教授会さえも諮問機関に格下げしようとしています。管理された大学からは自由な学問の灯は消えていくでしょう。


弓削達(1947年本学卒/東京大学名誉教授/フェリス女学院大学元学長)
 一九四六年七月のある日、私は東京商科大学(産業大学から旧名に戻ったのがいつだったかは憶えていないが、私は入学したときの名称にこだわる ※編者注:東京商科大学は一橋大学の旧名です)の学長室にいた。そこには戦後最初の学長選挙で、引退された高瀬荘大学学長(ママ ※編者注:高瀬荘は高瀬荘太郎学長のこと)に代って、戦後初の学長に、ほんの数日前、に選出されたばかりの、上原専禄新学長がおられた。七月のかなり暑い日だったのに、三ッ揃えの背広を着用しておられたことが目にやきついている。あとで聞いた奥様の話では、Yシャツに穴があいていたのをかくすためだったという。戦争直後の生活の状況が想像つくであろう。
 私がその学長室にいたのは、これまた数日前、戦後初代の(社)一橋会理事長に選ばれたのでごあいさつに行っていたというわけである。この一橋会というのは、他の大学での学生自治会であり、理事長とは委員長のことであった。上原先生は私のゼミの先生だった。これは偶然のことである。
 上原学長の選出に当っては、戦後いち早く学生自治会の再建に努力していた民研(民主主義科学研究会)の学生諸君を中心にしたグループがあったが、彼らが何の法的・制度的根拠もないのに学生による学長選挙を敢行し、上原教授を学長に選出した。おそらくその圧力もあって(と私たちは当時理解した)教授会でも上原学長に選出された。つまり「学生参加」という制度の前に、学生による民主的権利行使があったのである。この戦後の一橋における学園民主化運動をになったのは、予科一橋寮の自由な空気を吸って育った復員組で、あの暗黒時代を二度と再び来させないために、粗食にたえても「学問を」の気概にもえていた諸君であった。
 学生参加という制度がより先に、自由と自治のための熱情的な活動があったのである。このような学生の主体的行動なくしては、学生参加制度は、文部省に取り上げられてしまうことは火を見るより明らかである。
 私たちは戦後初代の一橋会理事会は、民研の諸君によって、「反動理事会」といって非難された。このことは、それ以後六十数年たった今も感謝を以って思い出される。よいか悪いかは別として、この率直な非難なくして、今の私はないのだ、と思う。



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