めぐりあう時間たち
 久しぶりにカタカナのない邦題に惹かれての鑑賞。(ちなみに原題はThe Hours 。ゆゑになかなかの訳だと思つた。)
 全体の印象は、ごく大雑把にいへば‘重い’だつた。人が持つ弱さとその裏返しの苛立ち。さういつた雰囲気がフィリップ・グラスの音楽との相乗効果で寄せる波のやうに繰り返し迫つてきた。冗長だと思ふ部分もほとんどなく、変化に富むとは言へない内容だつたにもかゝはらず、約2時間が長くは感じなかつた。
 作家バージニア・ウルフの夫には、愛する妻の心の傷を癒すため居を移し職を変へたりしたものゝ、傷を抱へる妻本人には重荷になつてゐることを認めざるを得ない虚しさが滲み出るプラットフォームでの場面でじわじわと心打つものがあつたが、周囲の干渉はやゝ離れたところからが丁度良いのだし、妻が苦手な召使ひを雇ひ続けたり、ことさらに病人に対する指示の類ひを連発するやうでは仕方ない面もあるぞ、などとも思つた。また、訪ねて来た姉の気持ちはとても素直だつたと思ふ。
 外見上は幸せさうな家庭の主婦が自殺未遂のうへ子どもふたりを残し家出してしまふ筋には、言いやうのない侘しさを覚えた。確かに本人が納得しかねる家族の雰囲気(夫のある意味で一方的な幸福の押し付け、あるいは望んだ結婚ではなかつたのかも)には同情できないこともないが、母の立場で子どものことを考へれば思ひとゞめるべきではないかと思つた。定年離婚でさへ夫の現役時代が終はるまで待つし(もつとも、経済的恩恵などが続いてゐるから待つのか?)、子どもが成人するまでは我慢する母もゐるではないか。それなのに産んだ直後に消えるとは、と思ふのだ。家族のことを思へば、決して自分のためだけに生きることはできないのだと私は思ふ。ま、本人も薄々自覚はしてゐたみたいだし、さういふ人生を私が否定する権利もないのだけどね。それにしても、子が母の異変を察知する能力はとても高いものだと思つた。以前からしばしば耳にしてゐた話だが、それが強く表現されてゐたと思ふ。
 そして3人目。若かりし頃の知人を病後も世話し続ける編集者の感情は、もつとも心打たれた。バージニアと同じく心の傷を持つ知人(詩人で、実は先の家出母の長男。自殺直前まで全然気づかなかつた。伏線がない、といふより伏線など無意味な構成なのだから当然かもしれないが、並行して進行する話が突如として直接的に繋がる妙味に貢献してゐた)にバージニアの夫と同じやうに「病人本人のために」尽くしてゐたが、こちらはより人間性が豊かだと思つた。つまり、病人としてしか見ないといつた態度はほとんど感じられなかつた。むしろ、わかりつゝも病人であることを否定したかつたやうだ。そんな健気な姿が私の心に好印象を与へたのだらう。彼女自身の寂しさは、同居の友人(同性)と娘とがしつかり癒してくれてゐると思つた。
 といふことで、幸福感に恵まれた映画では決してなかつたと思はざるを得ないのだけど、心の糧でもあつた詩人を失つた編集者が十代の昔を懐かしんで「幸せなときがあつた。これからもつと幸せになれる可能性がみなぎつてゐた。でも、それは幸せの始まりではなかつた。さう思ふそのときこそが最も幸せだつたのだ」といふやうな台詞(実際とは変形してゐると思ひます)を娘に聞かせる場面があつた。この手の話は過去何度か目や耳にしてゐたが、そのときばかりは心が和んだ。
(2003年6月22日、丸の内ピカデリー2)
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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2003年6月22日版)