走れ!ケッタマシン ウェディング狂騒曲
 劇団ふるさときゃらばん(通称“ふるきゃら”)の映画を観た。舞台でない映画ならではの場面ももちろんあるが、いつもの舞台同様に破天荒な物語が展開する。部分的にはありさうな(と、いふか間違ひなくあるだらう)話だが、それらが全部まとまつて起こると現実感がなくなる。しかし、そんな誇張された架空の物語も、いつもの舞台を知る者には合点できるのだ。
 主人公は一人ではない(これも複数の要素が同時進行で絡むふるきゃらミュージカルの特徴に通じる)が、核となる家族の長男坊やその姉はその候補として有力だ。彼らの振る舞ひは凡人から見るとかなり濃い。およそ平和的に暮らしを営んでゐる人にとつては目を覆ひたくなることが次から次へと起こる。見るからに現代的で健康的すらある姉は、親の心配をよそに都会の彼氏のもとへ出て行つてしまひ、そこで男親が今ひとつ明確でない子を未婚のまゝ産む。父親としての必要条件を語るなど、考へ方こそ一々頷けるものはあるが、その行動力は決して凡人ではない。親の心配とともに置いてきた弟への配慮に乏しい期待も、結局は弟の非行ぶりを増長させてしまふ結果となるのだ(家出・窃盗・無銭飲食・恐喝、そして車券販売と逃亡生活へ)。また、一方の家族では、中学生の娘が、ある思ひを確信犯的に成就させる(もつともそれが末永く続くかはかなり疑はざるを得ない状況だが)。上流階級のお嬢様が親の意に反すること自体は珍しくないが、その活躍(?)ぶりと親の無能ぶりの落差が凄いことになつてゐる。
 そんな型破りな若者たちを、地域振興を願ふことが一因とはいへ応援する隣人たちも、情に厚かつたり人生の光の部分に注目すること自体はわからないではないが、あれだけの悪さを犯した未成年に対するものとしては寛容すぎるだらう。表面的には警察関係者は話のわからない堅物のやうに扱はれてゐるが、冷静に考へれば警察側の対応は普通なのである。映画制作者として良心の呵責でもあつたのか、相応の結末が訪れる。彼の行動は、陽転志向至上主義にも耐へられないほど度のすぎたものであることが示されたのは、この映画の教育的配慮だつたのかもしれない。彼らが如何にしてさうした行動に走るのかを描いた曲(ミュージカル映画だからいろいろな曲が踊りとともに出てくる)があつたし、先の弟が非行に走る背景も丁寧に描かれてゐたと思ふが、それにしても、非行描写には真似してほしくない場面がちよつと多かつた嫌ひがある。とはいへ、現実にはなかなかできないことだからこそ映画で表現する意義もあるだらう。部分でなく総合的に見ても本当にありさうなことばかりでは、やつぱりつまらないだらう。折角の架空の世界なのだから。
 このふるきゃらの映画第1作は、カントリー・ミュージカルだつたやうで、自然の偉大さやお馴染みのイネの生育を歌つた曲も舞台では味はへない映像で楽しめた。だけど、脚本には、全体的にちよつと肩の力が入りすぎてゐたかな、と感じた。人生の応援歌としてのミュージカルを数多く作り続けて来たふるきゃらだから、表面的にはもう少しトーン・ダウンしても全体的には遜色ないものができるはずだ。第2作では、もう少しだけ余裕を持つた作風で、今度はサラリーマン・ミュージカルの映画版を期待したい。
(2002年9月28日、新宿東映パトス3)

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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版(/2005年4月23日微改訂)
(内容については実質的には2002年10月6日版)