テルミン
 記録映画を観た。世界初の電子楽器テルミンとその発明者テルミンの半生が数々の記録映像や写真、それに関係者の証言などで描かれる。
 が、この映画、たゞの記録映画ではないと思つた。天才テルミンの人となりが冒頭から早速披露されるのだ。それは、母胎から生まれ出たときのことを語るテルミン自身の音声だ。一方向に引つ張り出されて外に出て、眩しさに驚いて声を上げたが、それは不快な音だつた、と言ふ。人が生まれたときのことを記憶してゐること自体は別に不思議ではないが、生まれて数年も経てば膨大な情報に紛れ、以来思ひ出すことはないのが一般的だ。3歳未満のことは断片すら思ひ出せないといふ人も少なくないはずだ(もちろん私もそのひとり)。なのに、である。まあ、後年になつて想像したことをあたかも憶えてゐるかのやうに話しただけかもしれないけれど、いづれにせよ彼の奇人ぶりが最初から印象づけられることには違はないと思ふのだ。
 そして、そんなプロローグに続き、前述のとほり天才テルミンの仕事ぶりや波乱の出来事などが、淡々と、しかし観る者の好奇心をくすぐりながら映し出されるのだ。もちろん楽器テルミンについて、原理の解説とかいかに先駆的かつ独創的なものだつかも伝へられるし、名演奏や効果音として使用された映画の名場面を織り交ぜながら、その活躍ぶりも存分に紹介される。私はミュージック・シンセサイザーに興味を持つてしばらくした頃にテルミンを知つたのだが、子どもだつた当時の私は、手に触れずに電波を制御することで音楽を奏でる珍しい楽器、程度の認識で、それ以上は別に興味を持つことはなかつた。でも、この記録映画のおかげで、なんと偉大な楽器だつたのだ、と認識を新たにすることゝなつた。「測定器も使はず耳だけで完成させた」といふ証言があつたが、それが事実ならやはり天才だ。科学者であり音楽家であつて初めてできる仕事といへやう。
 しかし、私がもつと驚いたのは、テルミン開発以外にも様々な物作りをしたといふことだ。ソ連のKGBで盗聴器の改良にも携はることになる彼は、アメリカにゐたとき、テルミン以外にも電気楽器をいくつか発明したり、なんとカラーテレビと同様の装置まで実際に作つたといふ。また、橋を使はないで川を渡るための自動車の仕掛けを考案したり、とにかく活気に満ちた発明工房で仕事をしてゐたらしい。若いときには誕生日祝ひのケーキに人が近づくと回転する仕掛けを仕込んだやうな遊び心もあるし、人が踊る動きを音楽にするやうな楽器(?)まで作つた。正に奇特な天才ではないか。
 そんな彼が晩年も晩年、亡くなる2年くらゐ前に何十年ぶりかでテルミンの名演奏家(例のケーキを贈られた人)である女性クララと再会することになり、若い頃を過ごしたニューヨークに帰つてくる。車中で居眠りするテルミンは95歳。クララの部屋で折角の思ひ出の写真を見せられても「眼鏡を忘れた」としよぼくれる弱々しい老人だ。クララも歳を取つたがまだまだテルミンの演奏技術には確かなものがある。彼女の楽器の生みの親を尊敬して歴史的名器も売るやうなことは一切しないほどだが、実はクララもテルミン開発には一役買つてをり、彼女はテルミンを弾きながら彼にこんなことを言ふ。
 「ほら、スタッカートも弾ける。ポルタメントだけじやなくてこんなこともできるやうにあなたにお願ひしたのよね。私だつてこの楽器の改良にはずいぶん貢献したのよ。それなのにあなただけが有名になつて…」
 これには思はず笑つてしまつた。もしも彼女がもつと若かつたら、もしも彼女が男性だつたら、もしも…、と仮定して同じことを言ふだらうかと妻と話したが、結局は人それぞれだから、といふ結論になつた。クララは若いだけあつて(といつても80歳だが、)ひとしきり演奏したり喋つたりして、久しぶりに積もる話をするのだからと、取材の人間(この映画の製作者)を制した姿は、なんとも凛々しく見えた。かくして老テルミンはクララにエスコートされてニューヨークの街に出て行つた。
 全編にわたつてたつぷり楽器テルミンによる音楽が聴けたけれど、なかでもクララの演奏はさすがに素晴らしかつた。さういへば彼女のために書かれたテルミン協奏曲なんていふのも一部だが聴けた。折角認識を新たにしたことだし、テルミンのレコードを1枚くらゐ持つてゐてもいゝな、今度レコード屋に行つたら彼女のCDを探してみやう、と早速カモになつた私であつた。
(2001年10月17日、恵比寿ガーデンシネマ)

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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2001年10月21日版)