ホワイトアウト
何から書かうか、と迷ふほどいろんな角度で印象が残つた。だから、いつものやうにだらだらと書いてみる。
全体像
冬の黒部ダムといふだけでもたいへんなことなのに、黒部以外も含め冬山の屋外場面が沢山で驚いた。よくもまあこれだけ危険な撮影をしたものだと感心した。どこまで安全対策がとられてゐたのかはわからないが、とにかく大したものだと思つた。
物語の進行は比較的わかりやすく、下手な推理物と違つてイライラするやうなことがなかつた。謎解きがわからなくても、この署長ならきつと解決してくれる、といふ確信が持てたから、同じ「わからない」でも「知りたい→イライラ」ではなく「何だらう→ワクワク」になつたのだらう。さういつた意味でも、なかなか気持ち良く楽しめた。
主人公の破天荒さ
主人公(織田裕二)は電力会社の運転員。並外れた行動力でテロリスト集団との戦ひを繰り広げるが、この一種異常なほどの行動力を宿すことは、ほとんど最初から表現されてゐたと思ふ。テロリスト襲来後、最初のうちは銃の扱ひ方も満足にはわからないなど、非常事態に直面した一市民的な“かはいさ”も演出されてゐるのだが、実はもともと凄いヤツなのだといふのがよくわかる場面がある。それは、ダムのキャット・ウォーク(ダム壁面の点検用足場のこと。実際は猫が歩けるほどの幅しかないといふ訳ではないが、実際にかう呼ばれてゐる。)からロープで宙吊りになりバーナーで作業する場面だ。
織田裕二の上司は、(恐らくは巡視に行つたきり戻つて来ない)織田裕二がキャット・ウォークで作業してゐるのをモニターで発見し、「いつから土木課になつたんだ。早く戻つて来い」と言ふ。織田裕二は電気課なのだが、上司にさう言はれ、「堅いこと、言はないでくださいよ。私たちは安定した電力供給と適切な水系運用が使命ぢやないですか」といふやうな言葉(正確なものは忘れたがだいたいさういふ主旨)を返す。これは、明らかに“予定外作業”を行つてゐたことになる。予定外作業は安全上厳しく禁じられてゐるのが常識であり、ましてあのやうな危険な作業(それも安全監視員が立てられない単独作業!)は絶対に許されないのが現実だ。
さういふ意味では、あの設定(といふか脚本といふか演出といふか)は、リアリティに大きく欠けるものなのだが、私はさうは見なかつた。先ほども書いたとほり、これは類ひ稀な行動力を発揮する織田裕二を象徴するエピソードとして必要だつたのだらうと思ふのだ。会社の規則を破つてもなほ信念を貫くやうな、そんな常識破りの織田裕二を決定づけるものだつたのではないだらうかといふ訳だ。
それにしても、決して短かくはない距離を、真冬に、大量の冷水に押し流されても死なず、それどころか少々の暖を取るだけでさらに歩を進められるといふのは空恐ろしいほどの生命力だ。強い意志を持つた人間は、さう簡単には死なないのだ、といふことをつくづく思ひ知らされた。
ところで、織田裕二はかなりハアハアと息づかひが荒かつたが、あれはちよつとやりすぎではないかしら。あんなに息が上がるやうでは、あれだけの動きはできないと思つた。
警察組織
地元警察の人なつこさや純粋さみたいなものが、署長が自ら行ふ雪掻きを始め、いろんなところに表れてゐたと思ふ。自分ではなかなか動かない癖にやたらと指示する中間管理職がゐたりするのもおもしろかつた。
また、上位組織である県警本部や政府(?)の権力の強さ、なんていふことも伝はつてきた。警察庁の場面では、日本にもこんなところがあるのかしら、と、その広くて異様な雰囲気でいつぱいの部屋を見て、素朴にさう感じた。
制御システムの画面仕様
ダムや発電所の制御システムのコンピュータ画面がときどき大きく見えたのだが、表示されてゐる内容はなかなか専門的だつたのに、ひとつだけ現実にはなささうなことがあつて個人的に結構気になつてしまつた。それは、英語やローマ字の多用だ。多用といふか、日本語表記は全然なかつたかもしれない。
日本の電力会社が使ふ制御システムは、いくら最先端でも、いや、最先端であればあるほど、もつと漢字を含む日本語表現になつてゐるはずなのだ。発電所によつてはプラント単位での制御システムが海外メーカー製の場合、そのプラントに限りコストダウンの都合で英語表記をそのまゝ採用する(日本語仕様を諦める)こともあるかもしれない。だが、この映画のやうに、既存のダム(と発電所)を一括して制御できるシステムを新たに構築する場合は、ほゞ間違ひなく日本語仕様とするのが一般的だ。運転員の労働環境を考へて安全を優先すれば当然さうなる。電力会社の者でなくても、コンピュータによるシステムの仕様検討に携はつたことがある者ならば、たぶん同感だらう。
スクリーンに映るモニター画面の表示内容から、現物を詳しく取材のうへで作られたと思はれるのに、なぜあのやうにアルファベットが全面に出てしまつたのだらうか。もしかしたら、制作者としては実際よりも“格好良いシステム”を表現したかつたのかな、と、何となく感じた。でも、“人に優しいインターフェース”が売り物の時代、日本語より英語の方が格好良いといふのは、ちよつと違ふと思ふのだけどね。
人間ドラマ
織田裕二は、亡き友(石黒賢)から借りた方位磁石を石黒賢の婚約者に届けたいといふ気持ちも持つてゐた。それは結局かなふのだが、かういふ話があることで、たゞ派手なだけの映画で終はらず良かつたと思ふ。事件の巻き添へになつてしまつたその女性(松嶋菜々子)は、ずつと織田裕二を誤解してゐる(松嶋菜々子の婚約者であつた石黒賢は織田裕二とともに遭難したが、織田裕二だけが助つたので、松嶋菜々子は織田裕二は助けも呼ばずに逃げたのだと思つてしまふ)のだが、それは遺された者の無念さからくるのだからやむを得ない。私は誤解される織田裕二に同情し、ラスト近く(ほとんどラスト)で誤解が解けたときは安堵したものだ。
また、地元警察の署長(中村嘉葎雄)と織田裕二との無線でのやり取りも、中村の台詞が実にすばらしく情感のあふれる良い場面だつたと思ふ。良い場面といへば、織田裕二の回想による石黒賢とのキャンプ・テントでのやり取りも、石黒賢の非運を知る視聴者は、そこに何らかの思ひを巡らすことだらう。ちなみに、その場面で石黒賢は「自分が遭難したときには彼女を頼む」と織田裕二に言つてゐたのだが、最後まで観た者は、果して織田裕二は松嶋菜々子と一緒になるのかしらん、などと想像することもできるだらう。
とにかく、単なるアクション映画ではなく、“善意の気持ちからもたらされるエネルギー”のやうなものが感じられ、好感を覚えた次第である。
早くもリバイバルに期待
最初にも書いたが、とにかく雪山での映像がふんだんで、本物の(?)ホワイトアウトも見られる。下手な怪談映画よりもよほど涼めるといふ効果もあると思ふので、大ヒットもしてゐるやうだし毎夏上映されゝば嬉しいなどとも思ふ。
もちろん涼むだけなんてことは絶対にないので心配無用。邦画でもハリウッド張りの映画が作れることを証明したやうな作品だと思ふので、ぜひ多くの人に観てほしいと思ふ。
(2000年9月20日 日劇東宝)
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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2000年9月27日版)