銀河鉄道の夜
 杉井ギサブロー監督のアニメーション映画『銀河鉄道の夜』(原作:宮澤賢治)をNHKテレビの放送で初めて観た。(正確にはその放送を録画したVHSビデオ<1995.9.10、自宅にて>)

 茫漠と感ぜられる根底の悲哀とともに、幻想と現実が交錯する賢治の世界が見事に映像化されてゐると思つた。脚本(別役実)は、過去のあらゆる“映像化”同様、原作を削り、変へ、原作にはないエピソードを加へてゐたが、それは原作にとつてプラスになつてもマイナスにはなつてゐないと思つた。活字から映像を想像してゐた人にとつても、この映画で創造された世界は、多分そんなに違和感なく受け入れられることゝ思ふ。
 氷山に衝突して難破した船にかゝはる人物以外はすべて、擬人化ならぬ擬猫化してゐるのは、当初は「あれつ」と思つたが、その難破船の犠牲者である3人連れが(全編で初めて)まともな人間として登場することが、その現実感により、彼らの乗つた銀河鉄道は紛れもなく天上界へ向かつてゐることを印象深く意識させるのに効果的だと思つた。
 余談だが、この難破船に、処女航海で氷山に衝突したタイタニック号を私は連想してしまふ。広辞苑によれば、『銀河鉄道の夜』は1941年刊でタイタニック号の遭難は1912年。賢治の脳裏にタイタニック号のことがあつても不思議ではないと思ふがどうだらう。
 エンディングには、同じ宮澤賢治の詩集『春の修羅』の「序」の朗読を配してゐたが、この詩は“時計”とともにキーワードのごとく要所要所に使はれてゐた“交流電燈”と密接な関係があり、なかなか頷ける構成であつた。
 また、幕切れの言葉(字幕による)は意味深長であり、読む者はそれぞれに解釈可能だと思ふ。
 ところで、この映画の音楽についてはどうだつたか…。音楽は細野晴臣。冒頭、タイトルバックのない、つまり文字だけの画面に幽玄な音楽が聴こえて、早くも観衆を賢治の世界へと連れ去つてしまふのはさすがだ。細野の音楽(詞はない)が本物だからこそ、画のないオープニング・タイトルが可能だつたといつても、あながち過言ではないやうな気がする。オープニングに限らず、適度なポップ感覚も併せもつ独特の味はいを放つ音楽は、独特の幻想感を放つ映像と良く調和してゐたと思ふ。
 では次に、原曲が細野のオリヂナル以外の音楽についてチェックしてみよう。
 まづは、挿入曲としてクレジットされてゐたヘンデルの『ハレルヤ・コーラス』。新日本フィルほかの演奏が「南十字」のシーンで壮大に響いてゐた。
 次は讃美歌。これは確かめてはゐないが、曲の性格からまづ創作ではないと思はれる。難破の場面の前後などで効果的に使はれてゐた「神様のもとへ近づく…」といふ内容の歌である。《後に知つたのだが、この讃美歌はタイタニック号沈没の事故時に演奏された曲だつた。》(番号は不詳。306番とも326番とも)
 それから、ドボルザークの『新世界より』(交響曲第9番)の第2楽章。通称『新世界交響曲』の第2楽章のメロディーは『家路』で知られるあの“下校の音楽”だ。映画では、原作通り、たうもろこし畑の中の小さな停車場の場面で聴くことができた。全編を通じて最も明るい色彩の、最も安らぎに満ちた映像である。
 この讃美歌と『新世界交響曲』(賢治の言葉では「新世界交響樂」)は、クレジットはないが台詞によつて、観衆(聴衆(?))は原曲について(ある程度)知ることが可能である。
 そして、もう1曲使用されてゐるのに気がついた。ジョバンニがなかなか帰らぬ父のことを懐かしさうに母と話す場面で静かに聴こえてくる曲で、原作者宮澤賢治が作曲した『星めぐりの歌』のメロディーである。クレジットがないので、『春と修羅』の使用と同様、知らない人は引用についてわからないが、知つてゐる者にとつては“嬉しい採用”だ。そして勿論、そんなことは知らなくとも、『星めぐりの歌』は実に巧みな使はれ方で映像に花を添へてゐたことを忘れずに書いておかうと思ふ。
 でも、まるきり知らせないといふのは寂しい気もするのもまた事実だから複雑な心境である。サウンド・トラックのレコード・アルバムにはクレジットされてゐれば嬉しいと思ふ。(未調査のため不明)
(1995年/その後一部加筆)

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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2000年5月12日版)