クリックして帰る


我が家の3.11の記録
 「3家族及び猫一匹の震災の記憶」

ついに来るべき時が来たと思った・・・・

強い横揺れが起き、さらに酷い横揺れが続いた。
家具が倒れ、中身が飛び出し、崩れてゆく。家は大きく軋んだ。
その後、強い余震がひたすら続いた・・・
やっぱり来た!!

かねてからの申し合わせで、避難場所となっている、小学校のジャングル
ジムに避難をした。数分して避難者が続々と集まりだし、広い校庭がどんど
ん埋まってゆく、1200〜1300は集まっただろうか。

 雪が降り始めた、靴もはかない人たちがいたので、スリッパと毛布をあり
ったけだして渡す、3階建ての我が家が余震により大きく揺さぶられていた。
停電が起き、デジタル電話、携帯はたちまちつながらなくなり、情報から遮
断された。

 倉庫からテント、暖房器具、炊飯器具を引き出して、駐車場にテントを設
営。初期の退避場所を確保する。

爺様が心配だったので自転車で爺様の所へ行く。あちらこちらヒビの入っ
た、うねった道路が続き、信号はすべて止まっていた。長町駅の構内に貨
物列車が脱線して止まっており、さらに、新幹線も動かない、高架線の支
柱及び橋脚破損していた。徒歩で、帰宅する人の列がエンエンと続く。
 爺様の所、被害軽微、仏壇、TV等が倒れたもののほかは、無事。携帯
コンロの使い方を教え水道が出るかどうかを確認、食料はたくさんあった。
心配した、ばーチャンの地震恐怖症は意外なほど軽かった。(宮城県沖地
震で酷い目にあっていたので)
 従業員の一人が寄ってくれたらしく、買い物に行ってくれていた。寄って
くれたことが運命の分かれ道になり、彼女の命は救われる事となった。

国道4号線を見ると上り方面は比較的スムーズに流れている様子なので、
キャンピングカーを引き出す。4号線に出るまで1時間30分、出てから
20分で長町小学校に到着、校庭に車を駐車する。
これが我が家と枝家とで数日は寒さと飢をしのぐことになる。
雪はまだ降り続く・・・・・・・・
あの時は、まだ震災があれほど酷く広範囲になろうとは思いもよらなかっ
た。
原発が壊れ情報が錯綜する中で広島型の原爆150倍の放射能も拡散し
ていた。
世の中大変なこととなってしまった、
岩手県から関東の一部まで海岸沿いは未曾有の被害をこうむった。大震
災で、家が流され、壊され、多くの人命が失われた。福島県の一部では20
年は人の立ち入りが制限されるだろうと言われている放射能の被害が出
た。

 その中で、あっと言う間に6ヶ月が過ぎた。毎日が過ぎる中で、記憶が次
第に風化し、変形したり、アヤフヤになってゆく。
我が家も東北の中の被害を受けた一員として、被害は比較的軽微ではあ
ったものの、「どう生きたか」の経験を、風化が進む前に、記録としてここに
残しておきたい。正確には「3家族及び猫一匹の震災の記憶」となります。


地震に対する、対策と備え

   宮城県沖地震のあと次の地震が20〜30年後には必ず起きるとされ
  ていたので、ある程度の備えはしていた。
   想定としては 前回と同じ規模。家屋は全壊もしくは半壊、ライフライ
  ン破壊、火災の可能性、食料、水の不足。その後の補給物資をめぐる
  困難を予想していた。
  ただ、放射能に対する被害は考えていなかった。
   いつ来るかわからないものに対する準備であったので、細々と続け
  た。
   家の直ぐ前にある避難所でテントを張り、その中で余剰物質であるキ
   ャンプ用品及び食料で生活、3日間は何とか無救助で暮らせる体制
  は取ってあった。
   キャンピングカーは最初の段階では使用しないつもりでいたが雪とな
  ったので、無理をして運び込んだ。周りに集まった人の住民感情に配
  慮したのと、交通の劣化に伴い、移動不可能だと考えていたためであ
  る。

   役に立ったものもあれば、計画倒れで役に立たなかったものもある、
  が無策であったならばもっと悲惨な目に有っていたことは間違いない。
   もっとも、海に近く津波により被害を受けるとか、火災にも会わなかっ
  たので状況的に不幸中の幸いであったことは間違いないが 
       
近辺の地理的状況
 
  我々の住んでいる地域は、前の宮城県沖地震の際、壊滅的な破壊を
  受けました。地盤はきわめて軟弱、長町〜利府断層の真上。昔、広瀬
  川の河川敷だったようで、30cmも掘ると水が湧き出るところです。ゆえ
  に揺れ方はすさまじい、トラックが通っただけでも揺れます。
   前の地震の時、広瀬川方面より帯状に全壊家屋が出た、見る人が見
  れば比較的新しい家が、その他の家並みの中を帯状に存在している。
   我が家もその中に含まれており、全壊しています。
   今回の地震では帯が、前の地震より約200〜300m南よりに起きている
  ので大規模半壊ですんだが、新しい帯の方々は、移転、大修理となっ
  た。

地震に対する備え
 
  家屋
   宮城県沖地震の後倒壊した家を建て直すとき、父は軽量鉄骨の3階
  建てのビルを立て,各10mのパイルを6本打ち込んだ。ただし地震対策
  としては15〜16本打ち込まなければ効果が無いと後から言われた。
   震度5クラスの地震が起きた場合、3階にある書斎の本箱は、耐震して
  あるにもかかわらず倒れることになっている。倒れては起こす繰り返しだ
  った。ここは寝室となっており、寝ているときに倒れればOUTなので、
  揺れが強い場合,必ず押さえていたのだが・・・(4度ほど倒れている)。
  二階部分は壁のひび割れが凄く、3階は半年過ぎても、いまだに手付
  かずの状態である。

ライフラインに関して
  
電気
    停電が起きた。2.8kw及び300wの発電気をいつでも稼動できる体
   制にあったガソリン不足のため、300wの発電気を限定的に使用する
   にとどまった。また予備タンクのガソリンは腐っており、使用不能、車
   から抜き取り発電気にまわした。
   携帯 iホーンの充電に使用。ポータブルTVはしまってある場所まで
   到達できなかった。ラジオが唯一の情報を得る手段だった。
   4日後に電気は復旧した。

 
 水道に関しては
    2系統の使用が出来るようにしていた。一組は水道と直結、もう一系
   統は、一度タンクにためそこから給水する系統。無駄になるから取り
   外したらと言われていたが、万が一地震がきたらと言うことで、そのま
   ま使用していた。1,5トンの貯水量があつた。 今回は幸か不幸か断
   水しなかった。
    前の小学校の避難所に給水のため無制限に解放した

 
 ガスと灯油
 
   キャンプ用のガスボンベ 8本、プロパンガス2本及び灯油約250リッ
   トル食料があった。ただし車(ミニ、キャンピングカーとも)ガソリンは底
   を着いていた。

 
   震災時 米15キロ、缶詰多数、レトルト、野菜 若干の食料があっ
   た

    
灯油ストーブ、及びガスコンロで炊飯を行い、風呂も灯油なので不自
   由はしなかった、ご近所様に進めたが、軒並み灯油使用なので大丈
   夫と言われた。ガスは4月中旬に再開された

 
 通信手段及び情報
 
  電話 2系統 アナログ、デジタル、携帯電話、パソコン、ラジオ2組
    
アナログ回線は東北を除く関東及びその他と自由につながった
 
 その他
 
  キャンプ用品6人分、テント一貼り、キャンピングカー1台、ライト、
  テレビ、炊飯暖房器具数組、就寝具など。テントは後日救援物資の保
  管庫となりそれなりに活躍をした。 

 
詳しい記録
3月11日
      地震時 家族(愛は春休みで家にいた)、従業員2人、患者さん幸
     い0人かみさん応接室、その他全員待合室で喋っていた。
      初め横揺れが来た、だんだん強くなり本能的にテレビを押さえ
     る。
     このとき携帯の地震速報がなり始める。あちらこちらから物が落下
     する音が。そしてさらに地震の揺れが激しくなる。家がきしみ始め
     たので、全員を向かいにある小学校危難所に指定に避難を指示
     し、応接室のカミサンの所に行くと、かみさん本と本箱に埋もれな
     がらテレビを押さえ動けなくなっていた。引っ張り出して、退避場
     所へ、(どの場所に逃げるかは、決めてあった)。次々起きる余震
     の中、続々と着の身着のままで小学校に人々が避難してくる。
     家が大きく横揺れを起こし、これで終わりかなと思った。
      度重なる余震の中、雪が降り始めた。診療室に戻り、来診用のス
     リッパと備蓄の毛布を周りの人に配る、靴をはいていない人がいた
     からだ。その時点では小学校の体育館はまだ開いていなかった。

      近くの2つの保育所の幼児達職員に引率され退避してくる。みな
     頭に防災頭巾と防災バックを抱えヘルメットを被った保母さんに引
     率され隊列を作って非難していた。その後家族が迎に来る夕方ま
     で、退避状態は続いていた。
      家に戻り倉庫を開け当座必要なものを駐車場に引き出す。テント
     を張り、必要なものをデポしておく、広い長町小学校の校庭、人で
     一杯になる。

      携帯でじいちゃんのところに電話するが携帯も、宅電も通じな
     い。従業員二人返す。
      枝ママ近くのJR官舎から避難してくる、来るのが遅かったのはの
     ブー猫が行方不明で探していたのだそうだ。パパ会社、友ちゃん
     学校、ブー(猫)不明、社宅無事であるが内部崩壊で中には入れ
     ないとのこと。

      6kmほど離れたところにある爺様の家に安否確認のため自転車
     で行く、こちらの方は浜よりで地盤が軟らかいはずなのだが、被害
     は軽微で、電気ガスが不通、水道は出ていた、カセットコンロと当
     座の食料、カップめん等を置く、
      帰ったはずの従業員Aがいて買い物に行ってくれていた。
     これが後で幸いすることになる、(彼女の家は海沿いで津波により
     住居壊滅、だんな様とおばあさんが津波に取られた。地震発生から
     直ぐに帰ったら、彼女も津波に巻き込まれた可能性がある。)

      くる途中すべて信号は不通、新幹線の送電柱は折れ曲がり、橋
     脚はコンクリートから鉄骨はむき出し状態で、貨物列車が長町駅
     で停車、車は段差と信号が無いために渋滞、
     地下鉄電車、バス不通になったため人々が延々と歩いて帰宅して
     いた。
      国道4号バイパスを見ると上り車線は動いているようなので、キャ
     ンピングカーを移動する決心をする。爺ちゃんたちにコンロの使い
     方を教え、車移動する。バイパスに出るまで1時間20分それより20
     分で長町小学校に車を駐車させた。

      そのころには体育館が開き皆が入っていて避難していた。何かし
     ら団体のようなものが動いていて内部を取り仕切り、校庭内には車
     は入れない方針だと言われた、その前に入ていた7〜8台の車は
     御目こぼしを頂いた。
      最終的に体育館に避難した人の数は1800とも2000人とも言わ
     れ、座る場所さえない有様だった

      とにかく車検直前でガソリンもかすかすの状態ながら3家族と猫1
     匹の生活が4日間続くことになる。

3月12日余震頻繁に起きる

      食料のこともあるので体育館に状況を調べに行くと体育館の中
     は以前満杯状態で立錐の余地すらない、淡路大震災の経験者だ
     言う方が人数の把握やらテープで線引きなどをしていた。
      非常時なので仕方が無いのだろうが高圧的、ここにいないと明
     日から来るであろう配給は後回しになるとのこと。ここにいる人の「生
     活を守ることが第一義」と考えたいと言うので。
      それも仕方がないと自給の道をとることにした。

      10時ごろ自衛隊のトラックが救援物資を運んできた。みていると、
     水、グレープフルーツ、バナナ1本が一人当て配られていた。
      ミシンと荷物の間で気を失っていたブー猫を初め、友ちゃんを除
     く我々3人、枝家2人。枝家娘夫婦人で、キャンピングカーで寝泊
     りをはじめる。食料品を発掘(まさに)テントの中にデポする。余震
     はなはだ強く、頻繁なのでそれ以上のことは出来なかった。
      車載の発電気、燃料不足で作動出来ない。300w発電機は燃料
     が古く回らない、乗用車からガソリンを抜き回す。携帯を充電する。
     ただしどこにも繋がらない。
      前日に打ったメール昼ごろ届く。宅電停電のため不通、危険を
     冒して3階にあるアナログ電話を1階出入り口に回す。東北一円は
     繋がらないがそれ以外は直ぐ通じる、アナログ回線を1回線残して
     いたのが幸いした。
      横浜 東京とは自由に話せた。横浜も酷いらしい、食べ物が無い
     とのこと、近所のバーちゃんたちに息子娘に連絡を取らせるため、
     開放する。毎日定時に家族と話せたと感謝される。

      昼間 近くのOKストアー(スパー)が開くというので手すき要員で
     並ぶ、長い行列が出来る。手提げ籠、何でも入れて、一人一個で
     400円、電池単三20本200円なり、2回並ぶ。

      夜、枝パパ帰宅、長町駅の貨物列車の脱線車両の復旧に当た
     っていた模様。食事に出たとのことで餅パック2パック提出あり。食
     事後ラジオを聞きながら御酒を飲む(明日の活力のためだ)。荒浜
     の道路には200から300体の人が横たわっているとのこと、その他
     大規模な津波が起きている様子。俄かには信じられなかった。
     ともちゃん帰宅、前日は学校の礼拝堂で就寝したとのこと、キャン
     ピングカーで我々3人枝家3人、枝家娘夫婦二人、猫1匹就寝、今
     までの中で一番の収容人数だった。

      この日業者の人、救援に駆けつけてくれて、倒れた、ユニット類を
     起こす作業と応急修理をしてくれたが近辺ではここが一番被害が大
     きいとのこと。一台破損修理不能。
      このユニット、震災を2度体験していることになる。
3月13日
     余震相変わらず頻繁に起きる。食料支援本格化した模様、朝新聞
    により津波の情報入り始める。自衛隊のトラック1日に2度 着始め
    る。
     福島原発の様子次第に入り始める、地震と津波で原子炉崩壊し
    た、蒸気が上がっているとのこと、爆発は無いがメルトダウンの可能
    性大。
     携帯を出して距離を確認、120km内外、放射線はここまでは来な
    いだろう、もしも警報が出れば、放射線室は鉛で囲われているので
    、そこに子供達を入れて・・・、大人は壁からできるだけ離れているな
    ど考えたが、今から考えれば非常に甘い考えだったわけで、後手に
    回る日本国政府の体質、都合の悪いことは隠すと言う、日本人の行
    動様式などを考えに入れていなかった。
     そのときには放射能はここまで到達していたのだ。 
     これは対策を講じなければ、家の中に根拠地を移す算段をする。
    一刻も子供達を何とかしなければ、どこかに非難させる?。最初は山
    形を考えたが、 到達するガソリンが無い、バスも電車も不通である。
    なにぶんにも放射能濃度がわからない。五里霧中の模索が始まる。
    結局のところ交通機関が復旧したら直ぐに大阪まで逃がすことに、
    衆議一決、子供は外に出さない、車のできるだけ中央にいさせること
    にした。この日はじめて全員で風呂に入る。
     前途最初に震災を受けた待合室が比較的被害が少なく、余震の
    合間を縫って片付け方をする。壁には大きな亀裂、家具の散乱。た
    だしここはまだ良い方診療室に一歩入るとまともに歩けないほど色
    々なものが散乱している。地震の横揺れの振幅が大きく長時間
    に及んだため棚から落ちたものが口を開けさらに散乱したようだ。立
    っているものはすべて横になり散乱した。
     妹夫婦がハイオクタン20g持ってきてくれる。車に10リットル発電気
    に少し入れ満タンにする。この人たちはガソリンを手に入れる伝を持
    っているようだ。
     枝パパ通勤用のガソリンを入れるのに4時間待ちで10リットルし
    か入れてもらえないので自転車で通勤をはじめた。
    この日も8人1匹で就寝。患者さん一人、投薬のみ。
     買ってまだ支払いの済んでいないTV破損、アンテナの取り付け部
    分が落下により破損、後日根性で半だ付け、修理する。
3月14日
     釣り仲間の某氏、原付で仕事に行くと言うのでガソリンを車から抜
    き出し給油する。ガソリンを少量飲み込んだようでしばらく吐き気が
    した。余震激しく家の中にいることは困難であるが、患者さん一人、
    薬をもらいにくる、無償提供。
     余震の合間を縫って待合室を片付ける。小学校にはテントが張ら
    れ、救援本格化し始めた。
    校舎も非難した人たちを収容し始めた。マンションごとアパートごと
    崩壊してすめなくなったところがあるために、その措置が取られた模
    様。
     この日もOKに並ぶ 食料品をゲット、その他の店も少しずつあき
    始めたために食料には困らなかったが、タバコが売っていないのに
    は参った、何時もタバコを買う店のだんなが特別にとマイルドセブン
    を3箱譲ってくれた。
     夜半突然家の並びの電気が付く。何の連絡もなく電気が付いたの
    で真っ暗に慣れていた者には非常に明るく頼もしい物に見えた。
     福島原発で蒸気爆発!!白煙が上がっているとのこと。
    放射能が飛んでくる!!政府の避難指示は出ていないが、アメリカ
    では百何十キロ退避せよとか外国人の国外退去命令だ出ている様
    子である。
     直線距離110km離れているので放射線はこないだろう、放射能は
    風向きによってはかなり飛んでくるだろうと予測、どれほどになるか
    は、まったく不明である。
     交通機関の回復はまだ無い、ガソリンも手に入らない、どうするか
    、かなり拡散するはずなので大人はまだ安心だろうが子供をどうする
    か、不安だ。兎に角、外に出さないようにした。
3月15日
     キャンピングカーの生活用品を待合室に移し、キャンピングカーを
    移動させるべく爺さんのところに行く、同時に食料品を届けにる。ガ
    ソリンが底を付きかけているので冷や冷や物だった。車検の期日も
    近づいているがどうしようも無い。ガソリンも入れられない。
    車検に出すガソリンも無い。
     爺様の所、食料はたくさんあるが食べ方を知らない。逐一食べ方
    を説明する。

     妹夫婦突然やってきてガソリン缶回収に来る。早くしろとの矢の催
    促、何でも放射能からキャンピングカーで逃げるのだそうな。お前も
    逃げろ、集合場所はすべての家族に伝えてある、お前も集合場所を
    後から携帯するから参加しろとのこと。
     もしも、家のキャンピングカーを満タンに出来たとしても、行動半径
    は盛岡位まででガソリンは半分以下となる。東北一円ガソリンが不
    足していて給油の見込みはまず無い。
     闇雲に逃げたとして、その後どうなるか?。
    その後ガソリンを入れる宛てもなし、食料も無く、銀行も閉鎖してい
    れば資金も底をつき、どこぞの道の駅か駐車場で動けなくなって難
    民になるのが落ちだぞこれは・・・・・

    。ガソリンカスカス、満タンにする見込みなし。
    集合場所は盛岡市内の大型観光バス用の駐車場だと。実現不可
    能、レントゲン室の鉛の壁と、壁から距離を置くことで放射能の力を
    弱めるかに頼るかと真剣に考える。

     この日から2ヶ月診療室の待合室で家族 1匹生活を共にする。余
    震のたびに起きる。

     後日 妹夫婦のキャンピングカーは天童の道の駅で毎日温泉に
    入り地場の食べ物を食べのんびりしているとの携帯連絡あり。御土
    産に生鮮野菜をもらう。

     このころからあちらこちらの店開き始めて、買い物が不十分でも出
    来るようになり、個人宛の救援物資も届くようになり、各地から食料が
    届きはじめる。北海道、東京、横浜から、普段食べたことも無いよう
    な、高級な食料を沢山いただきました。
3月16日
     この日からとにかく診療室の片付け、整理にかかる。 診療室は、
    カルテが崩れて中身がバラバラとなる。一つづつ、照合してあわせ
    る作業と棚から落ちてばらばらになった器具類、薬品類を元に戻す
    作業が延々と続いた。
     技工室など1平米掃除するのに1日係りである。石膏模型、入れ歯
    に使う人工歯、金属類薬品のビンなどが層を作って折り重なっている
    、笊ですくい、まず石膏を取り除き、製作日時をあわせ箱に戻す、続
    いて水道水を出し、ゆすると軽い人口歯が浮き上がる、それを取り除
    き保管、続いて金属が底に沈むので取り出し、金属を分類、より分け
    る。模型は保存期間3年の縛りがあるので一つとして捨てるわけには
    行かない、金属類は驚くほど高いので見逃せない、いつ再開できる
    か見通しが立たない。
     最後には脚の関節がおかしくなり歩行困難気味になる。しばらく階
    段の上り下りが厳しかった。
3月17日
     この辺の地域は次第に平静を取り戻し始め、生活も次第に平常に
    戻りつつあるが、いぜん長町小学校には避難している人たちガいるし
    、海岸部はまだ爪あとが痛々しいい、多くがまだ避難所暮らしをして
    いる。やっと各避難所にも食料など供給され始めた様子、青森から銚
    子まで被害を受けているので大変だ、どう復旧するんだろうか。
     診療室も畦道様に人が通れるように整理して、何とか歩けるように
    した。散乱した器具類も分別して煮沸消毒ができるようになったの
    で、一応患者さんが来ても、診療できる体制は整った。
    まだ余震が頻繁にあるので注意しながらの診療だった。もっとも来る
    のは2〜3人であつたが・・・・・
     枝さん某宗教団体に加入しているので、そこからの救援物資が届く
    凄く、半端でない量、で部屋においておくわけには行かないので、テ
    ントの中に収容する。毛布40組梱包×3、食料、ミルク衣類、大阪から
    搬送される、それを小分けして気仙沼方面、岩手方面に送る。

3月22日
     福島原発1号機〜4号機からはかなりの放射能が飛散し、飛んだ
    範囲も広範囲に及んだらしい、20kmや30km非難してもあまり効果
    は無いとのこと。仙台までは100km以上有るが、ここにも飛散してき
    ていることは間違い無い、どのくらいかはまったくの不明。
     通算1wは放射能の中に曝されているので積算した放射能は通常
    レベルの4〜5倍は浴びているはず。状況はあまり良くないが、ガソリ
    ン事情が退避を許さない。
     その中で定期バスが運行を再開し始めた。
    半減期の短い、(枝家、長女夫婦が大阪から非難しろと言ってきてい
    るので)ヨウ素が落ち着くまで、大阪に退避させることにした。
     一度山形に抜け、そこから大阪まで日本海周りの長距離バスに乗
    せる計画だが、何せ高校2年生と中学2年生のことなので、心もとな
    い 。かなり心配であったが愛とトモちゃん大阪へ出発させた。
     かなり丁重に扱われ、天国のような生活だったらしいが。4月8日ま
    で大阪で過ごすことになる。
4月5日
     明日でキャンピングカーの車検が切れるので、偶然にも爺様の直
    ぐ近くにあったキャンピングカー専門店(日本車専門)に車検を依頼
    する。宮城県はこの手の車種の車検がかなり厳しいのはわかってい
    たが、出来上がったのは、8月初旬だった、(もっとも早く来ても乗れ
    なかったが.)なれないアメ車なのでなかなか車検が通らないで苦労
    した様子、3度も通らなかったとのこと。
   
4月7日 
     この日も愛と友ちゃんを除く全員で待合室で就寝中、大きな余震
    に見舞われる。
    最大余震は少し低めだったようだが、縦揺れが激しく、体感震度は
    本震より凄かった。
     この地震で弱っていた建物がさらに被害が出る、外壁は浮き上が
    り今にも落下しそう、亀裂はさらに大きくなり、3階の本箱また倒れ、
    窓ガラスを割る。診療室、カルテまた散乱。技工室散乱、器具類さら
    に倒壊、元の木阿弥とはこのことだ。
     このとき、地震のため任期が延び延びになっていたが、町内会の
    区長をしていたので、町内を回ったが、新たに瓦が落ちた家が数件
    出た。幸いにも怪我をされた方はなかった。
4月8日
     片付け方の最中に子供達帰宅する。
     今回の地震は本震より強かったと言う声しきりにした。
    ただ横揺れと地震の長さが短かったため、落ちたものが、さらに散
    乱せず、その場に固まっていたので、整理には前ほど時間がかか
    らなかった。停電にはいたらなかったので整理するに当たって非常
    に楽では有った。次の日から、戸棚は開かないようにし、棚はストッ
    パーを作り、カルテは紐でくくり、落ちないように大工仕事をした。
4月中ごろ
    ガス復旧する。
4月下旬
     枝家、我々、枝家次女夫婦とささやかな解散式をする。ぶー(猫)も
    家に帰ることになった。
     1家族でいるよりもなんと心強いことか、家族だけでいたらめげたか
    もしれない
     このころになるとガソリンも制限されてはいるが手に入るようになる。
     家の修理、最初に診療室の修理を依頼する。5月の連休中に工事
   するはずが、7月になっても修理完了せず。外壁の修理何とか終わら
   せる。御風呂、部屋の修理は9月に着工予定。
    る。
9月21日現在
     やっと余震も少なくなってきた、しかしまだ iホーンが手放せない、
    寝るときも枕元においておく、夜中に地震速報が鳴ると待機してい
    る。
     震源地が近い性か、たいがいはゆれている最中に鳴り出すが、大
    きさと震源地が途中でわかって便利だ、家屋、診療室の修理は今
    年一杯かかりそうだ。
     幸運にも放射能の初期散乱は風向きが仙台には向いていなかっ
    たようで、仙台沖を通り過ぎ気仙沼、一関に流れた様子。
     郡山、福島、二本松もいつになったら放射線濃度が下がるやらわ
    かりません。この辺も微弱ながら増えたり減ったりしているが、正常に
    戻るのには後何十年かかるのやら。
 
 
甚大な被害を受けたわけでもなく、実際大きな被害にあわれた方々がい
 らっしゃるのに、記録を書くのは申し訳ないが、飽く迄も、我が家の記録と
 して、呼んでいただければ幸いです。