作品名: メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬 -


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お名前: GOGH   
以下、公開当時(2006年4月)にブログに載せた駄文の転載です。(^_^;


監督(トミー・リー・ジョーンズ)、脚本家(ギジェルモ・アリアガ)共に西部劇として語られたく
ないようだが、スクリーンに映し出される風景はどうしようもなく西部劇だ。しかし、これは西部劇
ではない...

暴力シーンがありながら死者は、間違って殺されたメルキアデスだけ。保安官も主人公も「撃てない」
と言って引き金を引かない。何も当てる必要はない威嚇射撃のシーンでもよいのだ。ジョン・ウェイ
ンでは考えられない。”撃ち合いをしないから””人が死なないから" ”西部劇でない”と言う気は
毛頭ないが、やはりこれは西部劇として作られていない、対決の物語ではないのだ。北米大陸南西部
(テキサスとメキシコ)を舞台にした老カウボーイの国境物語。(※1)

C・イーストウッドは、娼婦を傷つけたカウボーイを金のため撃ち殺して(「許されざる者」)オス
カーを受賞し、トミー・リー・ジョーンズは、仲間を殺した国境警備員に遺体を担がせ遺族の元まで
運ばせてカンヌを受賞した。どちらも公権が罰しない犯罪者への自警行為(※2)。方や西部劇として
オスカーを獲り、方や西部劇ではないと言い切る。あえて西部劇にだけはしなかったのではないだろ
うか。なにせ今ではアメリカでさえ西部劇はコケル。

それにしても発見されたメルキアデスの遺体をピート(TLJ)が身元確認するシーンには唖然。何
せコヨーテにアゴから喉の部分を食い千切られた遺体の凄いこと。ほとんどゾンビ映画だ。このまま
この遺体をずっと見せられるのかと心配になったが大丈夫?次に出てきた遺体はきれいなアゴに。
死体にきれいもないもんだが...

この後、蟻を追っ払うために火を点けられたり、腐敗防止に不凍液を呑まされたりと、メルキ君の遺
体が何度か笑かせてくれるのだが、死者に対する礼というものがないのかね。こういうのは仏教徒の
日本人としてはあまり感心できない。これが本当に友情の為、贖罪の旅なのか?動機(友情・贖罪)
と行動(搬送)の重要性が逆転してしまっている。

ただし、これで終わってしまえばコミカルでちょっと風変わりなロードムービーになってしまうのだ
が...後はネタバレになるので見てのお楽しみ。

※1 同じようにメキシコに思いを馳せる若いカウボーイの国境物語「すべての美しい馬」がある。
こちらも悲しい結末が。

※2 「これは自警行為による正義を描いたものではなく、理解への旅、贖いの旅、友情の持つ意味
に忠実であろうとする旅なんだ。」(脚本家ギジェルモ・アリアガ、劇場パンフより)
[2008年5月12日 19時2分47秒]

お名前: ウエイン命   
「自分が死んだら生まれ故郷のヒメネスに埋めて欲しい、そこは水と緑に囲まれたこの世の天国なん
だ」メキシコ人青年メルキアデス・エストラーダの口癖はいつしか親友の老カウボーイ、ピートとの
固い約束になって行きます。これは不慮の死を遂げた友との約束を果たそうとする男の魂の物語です。
タイトルが難解な映画であることを示唆している上に、カンヌ映画祭の受賞作品とあってはちょっと
腰が引けますよね。にも拘らずDVDを借りて観たのは、解説に「腐乱死体が旅の道連れと云う設定
は明らかに巨匠S・ペキンパーの名作『ガルシアの首』のバリエーションである」の一文があったの
と、なによりもT・L・ジョーンズのテンガロンハット姿の誘惑に勝てなかったからです。製作・監
督・主演のジョーンズ自身が「これは西部劇ではない」と云っているので、本欄でご紹介するのは気
が引けなくもないんですが、逆に「そう断らなければならないほどに西部劇なんだ」とも云えます
(屁理屈?)。現代西部劇ですけどね。ジョーンズの言葉は「単なる」とか「所謂」等の冠詞付きだ
と思えばいいと思います。
テキサスの国境警備隊員マイク(B・ペッパー)は任務中突然起きた銃声に、相手を確認しないまま
慌てふためいて応射、弾はヤギを狙うジャッカルを追い払うためにライフルを使ったメキシコ人青年
メルキアデス・エストラーダに命中してしまいますが、マイクは目撃者がいないのを幸いに「…の三
度の埋葬」のうちの最初の埋葬を行って事件の隠蔽を図ります。すぐに犯人を割り出しながら当局も
また、メルキアデスが不法就労者であったことを幸いに「二度目の埋葬」を行って事件を揉み消そう
とします。偶然これを知ったメルキアデスの親友ピート(ジョーンズ)は、躊躇することなく実力行
使に訴えます。彼は、自宅で妻と夕食中のマイクを銃で脅して強引に拉致、メルキアデスの遺体を掘
り起こさせると、そのまま3人(?)でメルキアデスとの約束の地、遥かメキシコのヒメネスを目指
して旅に出ます。頼りはメルキアデスが残したメモ書きの地図だけ、苦心の末にようやくこの辺りと
思われる場所に辿り着きますが、誰に聞いてもヒメネスなどと云う村は見たことも聞いたこともない
との返事が帰ってくるばかり。しかし、ピートは一片の疑問を抱くこともなく、ひたすら水と緑に囲
まれた土地を探し続け、遂に発見します。そこは村などと云うものではありませんが、ピートはこの
場所こそが生前メルキアデスの云っていたヒメネスに違いないと確信します。彼はマイクと共に廃屋
を修繕し水辺の木陰で丁重に「三度目の埋葬」を行って冥福を祈ると、マイクにメルキアデスに対し
て謝罪させ馬を与えて解放すると、友との約束を果たした充足感とどこかホロ苦い気持を抱きながら
一人去って行きます。
困難であることには違いないのですが、例えば「コールド・マウンテン」のJ・ロウの旅のように苦
難を乗り越えボロボロクタクタになりながら…と云う悲惨なものではなく、センチメンタルな感情を
抑えて、黙々と、当たり前のことを当たり前にこなしているだけと云う頑固一徹な老カウボーイの姿
が悠然と描かれて行きます。ピートが文字通り「首に縄をつけて」引っ張って行くマイクは、「人生
に投げやりになった若者が困難を通じて成長して行く」と云う1つの典型ですが、これとても決して
大上段に振り被るのではなく、ピートの一途な行動の結果としてそうなったものとして、ごく自然に
受け入れられるようになっています。しかも、その淡々とした静かな展開の中にも、倦怠期にあるマ
イクの妻、保安官や彼と不倫関係にあるウェイトレス、メキシコからの不法越境者の一団、山中で出
会う盲目の世捨て人、怪しげな民間療法の女医師など2人を取り巻く主要な登場人物はもちろん、例
えばただ道を尋ねただけの相手に至るまで、ちょっとした言葉や仕草に、彼等が背負っている、それ
ぞれに重い人生を垣間見せて、知らず知らずのうちに観る者をグイグイと引き込んでいく力強さを兼
ね備えたそのタッチがまことに素晴らしい。現在と過去とが交錯する、所謂「時間軸を無視する」と
云うおよそ西部劇らしからぬ手法(菊池凛子のアカデミーノミネートで話題になった「バベル」と同
じ手法ですね)が取られていますが、分かり易く気にはなりません。
時代に取り残された昔気質のヒーローが、自らの信念に従い脇目も振らず一直線に進んでいく姿を、
淡々としかも思いやりと哀惜を込めて…となると、これはもうペキンパーワールドそのものじゃない
ですかね。寡黙でありながら圧倒的な存在感を放つ老カウボーイの信念の行動に素直に感動すると共
に、ジョーンズの作品に対する強い思い入れを感じた一編です。かつてC・イーストウッドが「許さ
れざる者」の映画化権を手に入れながら、自分が主人公を演じるに相応しい年齢に達するまでクラン
クインを10年延ばしたと云う話を思い出しました。
[2008年3月23日 7時0分7秒]

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